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ウェールズの鉄道を訪ねて-コンウィ・ヴァレー線

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スランディドノ Llandudno ~スランディドノ・ジャンクション Llandudno Junction ~ブライナイ・フェスティニオグ Blaenau Ffestiniog 間49.6km
軌間4フィート8インチ半(1,435mm)、開業1858~79年

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保養地スランディドノを遠望

今日も晴れるというので、ウェールズ北海岸にある有名な保養地スランディドノ Llandudno へ行くことにした。グレート・オームという岬に上がるケーブルトラムに乗り、それから世界遺産のコンウィ城へ回るという行程だ。ポースマドッグからスランディドノへは、ブライナイ・フェスティニオグ経由で山を越えていくのが速い。

7時55分、私たちはポースマドッグの公園前にあるバス停から、1B系統の路線バスに乗った。例のフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway は早朝には動いていないし、なにより鉄道で70分かかるこの区間を、バスならわずか30分で走り切ってしまう。移動手段として見た場合、後者の選択になるのはやむをえない。バスはドゥアリド川 Afon Dwyryd に沿って進み、谷底からいきなりスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog(フェスティニオグ本村)のある山の中腹へ攀じ登り始める。鉄道とはまったく別のルートをたどるので、興味の尽きることがない。

ブライナイ・フェスティニオグ駅の構内は、がらんとしていた。最も山側の標準軌ホームに、連接気動車がぽつんと停まっている。この路線の旅客輸送を担うのは、カンブリア線と同じアリーヴァ・トレインズ・ウェールズ Arriva Trains Wales で、車両も同形だ。この便の接続時間は12分と、十分余裕がある。バスからの乗継ぎ客が車内に収まると、人影の消えたホームにアイドリングの音だけが響いた。

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朝のブライナイ・フェスティニオグ駅で発車を待つ

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コンウィ・ヴァレー線(赤で表示)と周辺の鉄道網

ここブライナイ・フェスティニオグからスランディドノに通じる路線は、コンウィ・ヴァレー線(コンウィ渓谷線)Conwy Valley Line と呼ばれている。スランディドノ・ジャンクション Llandudno Junction を起点に、ノース・ウェールズ・コースト線(ウェールズ北岸線)North Wales Coast Line から南と北に分岐する本来別の2本の路線を、統一名称で売り出しているのだ。呼称だけではなく運用上も、ブライナイ・フェスティニオグ発着の列車は一部を除き、スランディドノへ直通する。

歴史をたどると、海側の方が登場が早く、避暑客の利用を見込んで1858年に、スランディドノ・ジャンクション~スランディドノ5.1kmが開通している。

一方、コンウィ川の谷を遡る山側区間は、1863年に、コンウェー・アンド・スランルースト鉄道 Conway and Llanrwst Railway(Conway はコンウィの英語における旧綴り)の手で、ノース・スランルースト North Llanrwst まで建設されたのが最初だ。これがロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway に引き継がれ、1868年にベトゥス・ア・コイド Betws-y-Coed、1879年にようやくブライナイ・フェスティニオグの仮駅に通じた。その後、1881年に新設された本駅まで延伸され、ようやく44.5kmの全線が完成した(下注)。

*注 仮駅は、トンネルの出口近くに造られた。1881年の本駅(国有化後はブライナイ・フェスティニオグ北 Blaenau Ffestiniog North 駅と称した)も現在の位置ではない。

最後の開通区間には、モイル・ダルノギズ Moel Dyrnogydd の下を貫く長さ3,520mのフェスティニオグトンネル Ffestiniog Tunnel がある。わざわざイギリスでも有数の長大トンネルを掘ってまで線路を延ばそうとしたのは、それまでフェスティニオグ鉄道が独占していたスレート輸送に参入するのが目的だった(下注)。そのために鉄道会社は、スランディドノの手前の、コンウィ川河口デガンウィ Deganwy に専用の積出し港も整備した。

*注 ブライナイ・フェスティニオグでの路線網と駅の変遷については、前回「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照。

しかしその後、採鉱事業の斜陽化が進んで貨物輸送は廃止されてしまい、今はアリーヴァの気動車が旅客輸送だけを続けている。海側区間は、マンチェスター Manchester 方面からの直通列車を含め、1時間に1~2本と比較的高頻度で運行されているが、山側区間では平日・土曜に一日6往復、日曜は3往復(冬季は運休)が走るのみだ。

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スレドル川の谷から見るモイル・シャボード Moel Siabod

始発駅の車内でも1列おきに座席が埋まっていて、ローカル線とはいえ、この時間帯はそれなりの需要があるのが見て取れる。8時35分定刻に走り出すと、列車は、うず高く積まれたスレート屑の山をすり抜け、フェスティニオグトンネルに突入した。長い闇の中から解放された後は、スレドル川の谷 Dyffryn Lledr に沿って下っていく。眺めはおおむね進行方向左側の車窓に開け、濃淡の緑をまとう山麓の上に、岩がちのどっしりした山塊が朝日を浴びている。途中に小駅がいくつかあるのだが、リクエストストップのためすべて通過した。

谷が狭まったところで、川を斜めに横切っていく。石造アーチのゲシン高架橋 Pont Gethin を渡るのだが、列車に乗っていたのでは気づかない。帰りは路線バスを使ったので、思いがけなくも、城壁のような重厚な石積みをカメラで捉えることができた。

まもなく、ベトゥス・ア・コイド Betws-y-coed だ。渓流が岩をはむ佳景で知られた小村で、以前車で通ったことがある。駅の裏にはコンウィ・ヴァレー鉄道博物館 Conwy Valley Railway Museum があって、15インチ(381mm)軌間のミニチュア鉄道も運行されている(下注)。一度ゆっくり訪ねてみたいものだ。

*注 同館サイトによれば、ミニチュア鉄道は2015年12月に洪水の被害を受け、運行休止中。

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(左)石造アーチのゲシン高架橋(帰りの路線バスから撮影)
(右)ベトゥス・ア・コイド駅裏の鉄道博物館

この後は山がしだいに遠のき、牧場や畑を森が縁取る穏やかな風景が車窓を支配するようになる。コンウィ川 Afon Conwy と名を改めた流れを渡ると、スランルースト Llanrwst に停車した。かつて羊毛交易で栄えたコンウィ谷の中心地だ。左側に見える川もその幅を広げていき、やがて川と海の境があいまいな三角江の様相を呈し始めた。小さな干潟で水鳥の群れが羽を休めている。線路が川岸から離れる直前、遠方にコンウィの鉄橋と古城がその姿を現した。

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スランルーストから下流は川幅が広がる
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川と海の境があいまいな三角江に
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三角江の先にコンウィの鉄橋と古城が見えた

コンウィの町は、スランディドノからの帰り途に立ち寄った。町の東側に、13世紀後半、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服に際して築いた古城、コンウィ城 Conwy Castle があり、世界遺産にも登録され、観光名所になっている。それとともに鉄道ファンには、傍らに架かるコンウィ鉄橋 Conwy Railway Bridge も見逃せない。ロバート・スティーヴンソン Robert Stephenson が設計し、1848年に竣工、翌49年に開通した橋だ。クルー Crewe ~ホリーヘッド Holyhead 間の幹線鉄道ノース・ウェールズ・コースト線 North Wales Coast Line が通っている。

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コンウィ城
(左)コンウィ川を渡るA547号線から城を見る(2階建バスから撮影) (右)塔が立ち並ぶ城内

鉄橋はチューブラーブリッジ(管状橋)といわれる構造で、スパンを長くとるために橋桁を鋳鉄製の四角い箱にし、その中に線路を通している。両岸には城の一部かと見紛う立派な橋楼(バービカン barbican)が建ち、列車はそのたもとに開いた門口から箱の中に吸い込まれていく。せっかく名城が背景を固めているというのに、列車が橋を渡る姿は見えない。それで、鉄道写真の被写体としてはインパクトが足りないのが惜しいところだ。

ちなみに、西のメナイ海峡を渡る同線のブリタニア橋 Britannia Bridge も当時同じ構造で造られたのだが、1970年に火災で損傷し、再建に際してトラスアーチ橋に変更された。それでコンウィ鉄橋は、管状橋の現存する唯一の作例になっている。コンウィ城の塔の上からは、眼下にこの珍しい鉄道橋と、トーマス・テルフォード Thomas Telford 設計の優雅な吊橋が並ぶさまを眺めることができる。

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(左)城のすぐ横をノース・ウェールズ・コースト線が通る
(右)コンウィ川を渡る3本の橋。右からスティーヴンソンの鉄道橋、テルフォードの吊橋、改修中の道路橋

鉱山町を出て約1時間で、スランディドノ・ジャンクションまで下ってきた。ここは駅名のとおり、本線格のノース・ウェールズ・コースト線との乗換駅だ。乗ってきた客の多くがここで降り、コースト線ホームへ移動していく。駅舎は上下線の間のホーム上にあり、レトロな風情の中央階段で、駅前広場へ通じる跨線橋につながる構造だ。本線の接続列車を待ち合わせるために15分停車したので、観察時間はたっぷりあった。いっとき人の動きが止まったホームを、カモメが一羽、わがもの顔で散歩していた。

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スランディドノ・ジャンクション駅
(左)ノース・ウェールズ・コースト線ではヴァージン・トレインも運行中
(右)レトロな風情の中央階段
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ホームを一羽のカモメが闊歩

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コンウィ~スランディドノ間の地形図(図中のConwayはConwyの旧綴り)
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 107 Snowdon 1959年版 に加筆

9時48分に再び発車、列車は上り線をゴトゴトと横断して、コンウィ・ヴァレー線の海側区間へ進入した。左手はコンウィ川の広い河口で、水面越しにもう一度コンウィ城と、それに続く石造りの街並みを遠望できる。デガンウィに造られたスレートの積出し港はもはや跡形もなく、ヨットがもやる優雅なマリーナに変身していた。列車は、ゴルフコースの横をかすめたかと思うと、早くも終点だった。この間わずか8分だ。

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デガンウィ駅付近から河口を隔ててコンウィの町の眺め

スランディドノはアイリッシュ海に臨む夏の保養地で、19世紀には「ウェールズのリゾートの女王」と称され、上流階級の人気を集めていた。煉瓦造りの現駅舎は、利用者が増えて初代駅舎が手狭になったため、1892年に新築されたものだ。建設当初は待合室や軽食堂を擁し、頭端式のプラットホームが5番線まであったそうだ。

その後、鉄道輸送が縮小するにつれ、設備を持て余すようになったことから、2014年に大改修が行われた。旧駅舎は半分撤去され、総ガラス張りのモダンな待合室に生まれ変わった。ホームも3面3線に縮小されたが、かつて送迎車両が乗り入れていた構内車道、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway (LM&S) のモノグラムを埋め込んだ改札柵、ホームを覆っていた大屋根の一部は残されていて、最盛期の威容をしのばせる。

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スランディドノ駅
(左)フェスティニオグからの列車が到着 (右)LM&S のモノグラムのある改札柵
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(左)大屋根の架かるホームの中央はかつての構内車道
(右)駅正面。中央部は総ガラス張りに改築された

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駅前に立つアリスの木像

駅前に出ると、天気予報の言ったとおり、町の上には雲一つない青空が広がっている。スランディドノには、不思議の国のアリスのモデルになったアリス・リデル Alice Liddell 一家の別荘があり、彼女はよく家族と訪れていたそうだ。駅の向かいの角に立つ大きなアリスの木像に見送られて、私たちは保養地の瀟洒な通りをグレート・オームの方角へ歩いていった。

次回は、グレート・オームのケーブルトラムに乗る。

■参考サイト
Cambrian Lines http://www.thecambrianline.co.uk/
Arriva Trains Wales  https://www.arrivatrainswales.co.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II


ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

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下部区間:ヴィクトリア Victoria ~ハーフウェー Halfway 間800m、開業1902年
上部区間:ハーフウェー~サミット Summit 間750m、開業1903年
軌間3フィート6インチ(1,067mm)

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グレート・オーム軌道の古典トラムが急坂を行く

アイリッシュ海に臨むスランディドノ Llandudno は人気のある海岸保養地で、白い瀟洒な建物が建ち並ぶプロムナード Promenade(海岸遊歩道)は、休暇を過ごす多くの人で賑わう。その町の西側を、灰色の高い崖が限っている。草地の間にドロマイト(苦灰岩)が層状に露出して、まるでミルフィーユのような容貌のこの崖は、グレート・オーム Great Orme と呼ばれる台地の側面だ(下注)。

*注 ちなみに、グレート・オームに対するリトル・オーム Little Orme が、スランディドノ市街の東側にある。これらの岬は、船乗りたちにとって格好の目印だった。

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スランディドノの市街地の背後を、ミルフィーユのようなグレート・オームの崖が限る

東西3.5km、南北2km、標高207mのグレート・オームは、地形的に見ると、スランディドノの市街地が載る砂州によって陸地とつながれた島(=陸繫島)だ。海に突き出して、眺めがいいので、昔からスランディドノの滞在客に手近な気晴らしの場を提供してきた。これから乗るグレート・オーム軌道 Great Orme Tramway も、そこへ上る足として親しまれているケーブルトラム(トラム車両のケーブルカー)だ。

軌道は下部区間と上部区間に分かれている。それぞれ独立して運転され、乗客は両区間が接続するハーフウェー駅 Halfway Station で車両を乗換える。開業したのは、下部区間が1902年、上部区間が1年遅れて1903年のことだ。1932年に下部区間で車両がケーブルから外れて脱線する事故を起こし、2年間運休となった以外は、2度の大戦中も含めて110年以上走り続けてきた。その間に運行権は、1949年に民間会社からスランディドノ市に移り、その後の自治体再編によって、現在はコンウィ特別市 Conwy County Borough が運営主体となっている。

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グレート・オーム軌道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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グレート・オーム周辺の地形図
1:25,000地形図 SH78, SH88 いずれも1956年版 に加筆。標高はフィート単位。

乗り場のヴィクトリア駅 Victoria Station は、町を南北に貫くグローザイス通り Gloddaeth Street から300mほど山手へ上った、台地の麓にある。駅名は、この敷地にかつて建っていたヴィクトリアというホテルが由来だという。主要道路から引っ込んでいて場所がわかりにくそうに思ったが、心配は無用だった。青い大きな看板のかかる乗り場の前の歩道に、すでに次のブロックまで達する長い行列ができていたからだ。

案内板によると、4~9月は始発10時、最終便が18時で、通常20分毎、繁忙時は10分毎に運行されている(下注)。真っ青な空が広がった今日は、もちろん10分間隔でフル稼働していたが、定員48名の小さな車両なので、並んでいる間も列は解消するどころか、次々と加わる人で長くなる一方だった。

*注 3月と10月は10~17時の運行で、冬場は全面運休となる。

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ヴィクトリア駅の前には長蛇の列が

車両が発着する様子を眺めながら1時間近く待って、ようやく大屋根の下の切符売り場までたどり着いた。ここまで来れば、あと1~2便で乗れる。たまたま前の便が私たちの直前で満席になったので、次に来た車両には先頭で乗込めた。できるならこの手の乗り物は、上るにつれて眼下の景色が開けていく最後尾の席を取りたい。

車両は開業時からいるオープンデッキ付き側窓なしのボギー車で、コバルトブルーの外壁に、クリーム色でクラシックな装飾や文字が描かれている。車内は通路の両側に、2人掛けの狭い木製ベンチが向かい合わせに並ぶ。乗り込んだ客が全員着席すると、すぐに発車した。

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開業時からの古典車両
(左)オープンデッキ付き側窓なし (右)2人掛けの木製ベンチが並ぶ

ヴィクトリアからハーフウェー Halfway までの下部区間は、長さが800m、最急勾配1:3.7(270‰)で、標高差123mを6分で上りきる。大部分が道路との併用軌道で、車両を引き上げるケーブルは、路面に埋められたZレールの溝の中に敷かれている。そのため、地表では車輪が走行する2本のレールと、その間にZレールの平たい頂部が見えるばかりだ。教えられなければ、ケーブルカーとは気づかないだろう。

見かけは有名なサンフランシスコ市内のケーブルカーに似ているが、あちらは、動いているケーブルを車両側の専用装置で掴むことにより移動する循環式だ。対して、こちらは車両がケーブルに固定され、ケーブルとともに移動する。普通のケーブルカーと同じ交走式と呼ばれる仕組みだが、併用軌道で残存しているのはイギリス唯一で、世界でも貴重な存在だそうだ(下注)。

*注 同じ方式がポルトガルのリスボン市内で3路線稼働している。

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車両の駆動システム図解。左の下部区間と、右の上部区間で方式が異なる

線路は、駅を出るとすぐにオールドロード Old Road と呼ばれる家並に囲まれた坂道に入り、そのまま急勾配で上っていく。歩く人でさえ、車両が通るときは石積みの側壁に身を寄せてやり過ごさなければならないほどの狭い道だ。クルマとの対向はとうてい不可能なので、運行時間帯は沿線の住宅への出入りを除いて、車両通行が禁止されている。

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下部区間は4号車と5号車が担当。最初は狭いオールド・ロードを行く
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上るにつれ、スランディドノのプロムナード(海岸遊歩道)が見えてくる

高度が上がるにつれて、弓なりになったプロムナードと波打ち寄せる海岸線が視界に入ってくる。くねくねと曲がったあと、ようやく2車線のティー・グウィンロード Tŷ Gwyn Road(Tŷ Gwyn は白い家の意)に躍り出た。ここでは道路の中央ではなく進行方向右端を走るので、最初に車道を横切らなければならない。その間、警報機が鳴り、道路側の赤信号が灯って、クルマの通行は遮断される。

帰りはここを歩いて降りたのだが、警報機が鳴り出すより前に、地面からガラガラと賑やかな音が響き始めた。ケーブルが溝の中で移動し、滑車が回転する音だ。そしてしばらくしてから車両が現れる。ドライバーはともかく歩行者にとっては、この音が車両の接近を知らせる一番の合図になった。

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ティー・グウィンロードに出る。警報機が鳴り、クルマは停止

まもなく下部区間の中間地点だ。線路が複線に分かれ、降りてきた車両とゆっくりすれ違う。交換所の先は、線路が一種のガントレット(単複線)になるのがおもしろい。走行レールのうち内側2本は近接し、かつ位置が逆転(左車線のレールが右側にある)しており、フランジが通る溝は左右車線で共用になっている。

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道路わきの列車交換所を通過
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(左)交換所より下は単線 (右)交換所より上はガントレットに
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スランディドノ湾が大きく広がる。湾の先の断崖がある山がリトル・オーム

道路とともに右へ大きく曲がると、勾配は輪をかけて急になった。道端の建物が坂上側へ傾いて見える。トラムが涼しい顔で上る隣を、クルマがローギアでエンジンを唸らせながらやっとのことで追い抜いていく。そんなに気張らなくても、と思わず同情したくなる。後ろに開けていたスランディドノ湾の眺望は、いつしか山かげに隠れた。

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カーブを曲がると目に見えて急勾配に。左写真は坂上から、右写真は坂下から撮影

今度は左へカーブする。公園のゲートがあり、並行道路が線路から離れていった。まもなく、ケーブルカーも、ハーフウェー駅の切妻屋根の下へ半分吸い込まれ、そこで停車した。ハーフウェーは文字どおり道の中途なので、山頂へ行く乗客はここで上部区間の車両に乗り換えなくてはいけない。

駅舎は2001年の改築で、見かけはまだ新しい。半円の屋内通路の壁には、軌道の歴史や構造を説明したパネルがかかり、ガラス張りの内壁からケーブルを巻き上げたドラムも間近に見える。それはそれで興味深いのだが、接続する便に乗りたければ、残念ながらじっくり見ている時間はない。

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(左)ハーフウェー駅到着 (右)停車位置の先にある車両検査ピット
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(左)ガラス越しにケーブルの巻上げ機が見える (右)隣接する上部区間の発着場

ハーフウェーからサミット Summit までの上部区間は、750mの長さがある。最急勾配1:9.3(107.5‰)で、標高差44mを4分半で上ってしまう。すでに台地の上に出ているので、勾配は比較的緩く、速度も若干速めだ。下部区間とは違って終始単線(交換所を除く)の専用軌道で、ケーブルも露出している。

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上部区間 (左)ハーフウェー駅を発車 (右)終始専用区間のため、ケーブルが露出

駅を出ると、聖ティドノ教会(下注1)へ降りる道路と交差した後、ヒースが淡い彩りを添える緑の草原をそろそろと上っていく。海側を小さな空中ゴンドラが行き来しているのが見える。スランディドノ・ケーブルカー Llandudno Cable Car という名称のため紛らわしいが、グレート・オームへ上るもう一つの公共交通機関だ(下注2)。後で乗ろうとしたのだが、乗り場に山麓で見たのと同じような長蛇の列ができていたので諦めた。

*注1 ちなみに、聖ティドノ St. Tudno はスランディドノの守護聖人で、町の名の由来でもある。
*注2 公共交通機関としては、スランディドノの市内循環バス(26系統)も山頂まで1時間毎に走っている(日祝日を除く)。

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上部区間の列車交換所で6号車と7号車が交換。背後は空中ゴンドラ
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交換所のあとは少し急な勾配で山頂までひと上り

中間地点を過ぎると、交換した下り車両が、日差し降り注ぐのどかな景色の中を遠ざかっていく。線路には柵がないので、群れからはぐれた羊や牛が入り込むこともままあるそうだ。線路は左右にカーブを切りながら、短い切通しで起伏を乗り越えた。今度は左手に青いコンウィ湾が見えてきて、乗客の視線がそちらに注がれる、と思う間に早くも終点だった。

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(左)左手にコンウィ湾が開ける (右)サミット駅に到着

標高198mのサミット駅は、呼び名にたがわず山頂直下にある。右手の小道を少したどれば、ビジターセンターやショップ、レストランのある山頂の休憩施設だ。しかし、こんな天気のいい日は何よりもまず、遮るもののない陸と海の眺望を楽しみたい。南側は弧をなすコンウィ湾の後ろになだらかなスノードニアの山並みが続き、西はアングルシーの島影が長く尾を引く。北は、羊が放たれた山上牧場の向こうに、アイリッシュ海の大海原が目の届く限り広がり、そのまま明るい空に溶け込んでいる。こんな気晴らしの場所がすぐ近くにあるスランディドノの滞在客は幸せだと、心から思った。

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山頂から、コンウィ湾とスノードニアの山々を遠望
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(左)山上の台地はのびやかな放牧地 (右)カモメの楽園でもある

次回は南に転じて、鉱山軌道だったタリスリン鉄道に乗る。

本稿は、Keith Turner "The Great Orme Tramway - Over a Century of Service" Gwasg Carreg Gwalch, 2002および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
グレート・オーム軌道(公式サイト) http://www.greatormetramway.co.uk/

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ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道

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タウィン・ワーフ Tywyn Wharf ~ナント・グウェルノル Nant Gwernol 間 11.67km
軌間 2フィート3インチ(686mm)
開業 1866年、保存鉄道化 1951年

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タウィン・ワーフ駅の機回し風景

ポースマドッグ Porthmadog から、7時47分発のカンブリア線気動車に乗り込んだ。車内は見事にすいていたので、海側に座って、カーディガン湾の開放的な景色を思う存分眺めることができた。今朝もすっきりと晴れ渡り、空気はひんやりしている。酷暑の国から来た身にはまるで別世界だ。当地で快晴が3日も続くのは珍しく、テレビの天気予報も、さすがに午後からは雲が出てくると言っていた。

タウィン Tywyn で下車する。きょうの前半は、タリスリン鉄道 Talyllyn Railway(下注)を往復するつもりだ。小型蒸機が活躍する保存鉄道で、海岸の避暑地タウィンから、東の山中のナント・グウェルノル Nant Gwernol に至る12km弱を走っている。軌間は2フィート3インチ(686mm)と、フェスティニオグほどではないにしろ、かなり狭い。

*注 Talyllyn は Tal-y-llyn とも書かれ、終点が属する教区の名だ(山間の美しいタリスリン湖にあやかったとも言われる)。タラスリン、タル・ア・スリンと表記すべきところだが、慣用に従いタリスリンとした。

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タリスリン鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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タリスリン鉄道沿線の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

始発駅タウィン・ワーフ Tywyn Wharf は、カンブリア線のタウィン駅から少し距離がある。駅前の道を右へとり、線路に沿って300mほど歩くと、次の交差点の傍らに小ぶりの駅舎が建っている。屋根はスレート葺き、壁は煉瓦積みの伝統的な外見だが、実は2005年の再開発事業による新築だ。平屋部分が事務所、切符売り場、売店等で、隣の2階建部分は鉄道博物館になっている。

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(左)カンブリア線でタウィン駅下車 (右)タウィンの小さな市街地
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タウィン・ワーフの駅舎は2005年に改築された
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タウィン・ワーフ駅
(左)ささやかな始発駅の構内
(右)標準軌線に並行する側線はスレート貨物を積替えていた跡

さっそく乗車券を買った。特に言わなければ、寄付金つき一日券 Donation Day Rover の運賃になるようだ。その代わり、乗車券と一緒に渡される運賃15%分のバウチャーが、売店やカフェでの支払いに使える。私はウェールズ・パスを見せたので、運賃自体が20%オフになった。

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往復乗車券

ホームに出ると、短いながらもポースマドッグのハーバー駅を思わせる明るい庇屋根とフラワーバスケットの列が迎えてくれる。すでにコンパートメント形の客車がホームにつけられていた。扉が片側にしかないが、これには深い訳がある。

150年前、鉄道の建設工事の最終盤のことだ。商務省検査官による完了検査の結果を聞いた鉄道会社の役員は青ざめた。跨線橋の内寸が車両限界より小さいため、跨線橋の下で列車が立ち往生したときに、乗客が車両から脱出できない、として改善命令が出たからだ。従わなければ運行が開始できない。とはいえ、いまさら車両も跨線橋も造り直すわけにはいかない。そこで、会社は苦肉の策をひねり出した。跨線橋の下の線路位置を右にずらして左側に規定の空間を確保し、そのうえで車両は右扉を閉鎖して、左扉のみ使用するという妥協案だ。これでかろうじて検査に合格し、鉄道は開通を果たした。片側扉はその名残なのだという。

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(左)客車は片扉 (右)貫通路はなく、ボックスごとに扉がある

始発列車の出発は10時30分で、まだ1時間近くある。隣の鉄道博物館を覗くと、小型機関車にスレート貨車、硬券乗車券その他の小物と、狭軌鉄道のコレクションが充実している。しばらく見学しているうちに、時間はたちまち過ぎていった。

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鉄道博物館の展示品

タリスリン鉄道もまた、スレート運搬のために開設された鉄道だ。この地域では、1840年代からタウィン(下注)の北東7マイル(11km)のブリン・エグルイス Bryn Eglwys で、本格的な採掘が営まれていた。しかし、そのスレートは駄馬で南の山を越え、ペンナル Pennal から川舟でドーヴィー川を下り、河口で貨物船に積み替えるという非常に手間のかかるルートで輸送されていた。そのため、さらなる増産は困難だった。

*注 タウィン Tywyn は、1975年まで Towyn と綴った。

1864年にイングランド北西部の工場主の一人ウィリアム・マッコーネル William McConnel が、商売の多角化のために採掘場の経営に乗り出した。彼は、輸送路を確立しようと、当時標準軌の鉄道が来ていたタウィンまで、軽便鉄道の敷設を計画した。採用された2フィート3インチ(686mm)という軌間は今では珍しいが、当時、近隣のコリス鉄道 Corris Railway ですでに使われていた。目的地のブリン・エグルイスは標高250mの山中にある。それで鉄道は、2か所のインクライン(斜行鉄道)を連ねて、必要な高度を稼いだ。

*注 コリス鉄道は、マハンレス Machynlleth(標準軌線開通以前はさらに下流のデルウェンラス Derwenlas)からコリス Corris やアベルスレヴェンニ Aberllefenni のスレート鉱山へ延びていた軽便鉄道。1859年開通。現在は、山中のコリスに1.2kmの短い保存鉄道が復元されている。

鉄道は1866年に完成し、同じ年に労働者や一般旅客の輸送も始まった。スレート生産がピークを過ぎると、近所のタリスリン湖やカデア・イドリス(カダイル・イドリス)山 Cadair Idris と組み合わせたグランド・ツアーを企画して、旅行客の掘り起こしにも努めた。

1910年にマッコーネルが手を引いた後は、地元の地主で下院議員だったハイドン・ジョーンズ Haydn Jones が採掘場を引き継いだ。第一次世界大戦が終結すると、旅行者は再び増加に転じた。客車不足を補うために、スレート貨車に板張りの座席をしつらえて急場をしのいだこともあった。観光輸送は運営費用の足しになりはしたが、十分な利益をもたらすほどではなかったようだ。

鉄道の経営を支えていたのは依然、スレート貨物だった。しかし、第二次大戦後の1946年に大規模な崩壊が起きて、採掘場は閉鎖のやむなきに至る。ハイドン・ジョーンズは、自分が生きている間は列車を動かすと公言していたので、鉄道は週2日に限って、細々と走り続けた。だが、1950年に彼が亡くなると、運行休止の懸念が現実のものとなった。

今から思えば、鉄道を救うための社会活動は、彼の死をきっかけにして動き出したのだ。バーミンガムの新聞社の協力で、考えを同じくする人々が集い、準備作業が始まった。鉄道会社の株式は持ち株会社に移し、運営は保存協会が担うことにして、早くも1951年のシーズンには、保存鉄道としてのスタートが切られた。

ハイドン・ジョーンズの最晩年に稼働していた機関車は、2号機ドルゴッホ Dolgoch だけだった(下注)。そこで、先ごろ休止となったコリス鉄道から2両の機関車が購入され、3号サー・ハイドン Sir Haydn、4号エドワード・トーマス Edward Thomas と命名された。小さな鉄道は1957年にBBCの番組で紹介されたことで人気が高まり、運営が軌道に乗ったと言われている。

*注 1号機タリスリンは、戦時中酷使されたために故障し、修理待ちの状態だった。

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2号機関車ドルゴッホ

今年(2016年)の運行期間は、3月中旬から10月末と、冬季の一部の日だ。ピークシーズンには1日6便が運行されている。所要時間は往路が55分、復路が82~87分だ。復路のほうが長くかかるのは、途中のアベルガノルウィン Abergynolwyn で休憩タイム refreshment break があるためだ(下注)。

*注 最終便は往路に休憩タイムが設定されており、所要時間は逆転する。

博物館の中では、ほとんど一人だった。ところが、出発15分前にホームに戻ると、すでに客車のどの区画にも客の姿がある。私も、母と娘とおぼしき3人連れがいる区画に入れてもらったが、発車直前に、途中の信号所へ赴くという老スタッフ氏も乗り込んできた。向い合せのシートは一応片側3人掛けではあるものの、大人5人が入ると少々窮屈だ。スタッフ氏は「狭くて悪いね」と恐縮していたが、繁盛しているのだから結構なことだ。

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フラワーバスケットで飾られた始発駅のホーム

前につく機関車はそのドルゴッホ。1866年製で、ずっとこの鉄道を仕事場にしてきた最古参機だ。列車は、出発するといきなり掘割の中を行く。タウィンの町は背後の山から続く微高地に載っていて、線路はこれを切り通して造られているからだ。

一駅目のペンドレ Pendre は、機関庫、車庫、整備工場があり、鉄道の管理拠点になっている。それからしばらく、広々とした牧場の中を進んでいく。明るい光が一面に降り注ぎ、羊たちが無心に青草を食むのどかな景色に心が和む。リダローネン Rhydyronen という野中の小さな駅にも、列車を待つ人の姿があった。無人の待合室のように見えた建物は、驚いたことに切符売り場兼売店で、人が配置されているらしい。

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(左)機関庫のあるペンドレ駅 (右)タウィンの町を抜けるとのどかな牧野が広がる
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(左)リダローネン駅では降車客あり (右)ナナカマドの木が見送ってくれる(帰路撮影)

次のブリングラス Brynglas には待避線があり、帰りはここで列車交換があった。閉塞は通票方式で、信号扱所に詰めている係員がポイントを操作し、手旗で閉塞区間への進入を許可している。商業鉄道ではとうに失われた暖かな手作り感が、ここではボランティアの手で連綿と維持されているということが、だんだんとわかってきた。

やがて左手の車窓にも、巨大なコッペパンのような山塊が見え始める。線路は緩やかな上り勾配で、浅いU字の谷に入っていく。機関車のドラフト音がせわしくなり、長く鋭い汽笛がときおり山にこだまする。林の中に、ナント・ドルゴッホ Nant Dol-goch の谷川を渡る高さ16mの高架橋がある。渡り終えると、左カーブしながらドルゴッホ駅に停車した。けっこう降りる人たちがいるのは、谷川にある3つの滝を見ながらハイキングを楽しむつもりだろう。機関車もここで給水を受けた。

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ドルゴッホ西方。緩やかな上り勾配が始まる
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(左)ナント・ドルゴッホの谷川を渡る (右)ドルゴッホ駅の発車風景(帰路撮影)

クォーリー・サイディング・ホールト Quarry Siding Halt では、帰りに列車交換をしたが、やってきたのはお面をつけた「ダンカン Duncan」だった。1918年製、動輪2軸の6号機で、ダグラス Douglas が本名なのだが、ずっと絵本「きかんしゃトーマス」の登場人物の扮装で走っている。トーマスの作者ウィルバート・オードリー牧師 Rev. Wilbert Awdry はタリスリン鉄道の保存協会の会員で、1952年からしばしば家族で現地を訪れて、ボランティアとして働いた。トーマスシリーズに登場する狭軌のスカーロイ鉄道 Skarloey Railway とその機関車は、タリスリン鉄道のそれをモデルにしているのだそうだ。

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(左)クォーリー・サイディング・ホールトで列車交換
(右)対向相手はダンカン(いずれも帰路撮影)

次は、アベルガノルウィンだ。森に囲まれ、近くに人家はなく、石切工とその家族が住んでいた同名の村へは1kmほど坂を下りていかなければならない。それにもかかわらず、長いホームと側線と、切符売り場、売店、カフェを収容した立派な駅舎がある。旅客列車は、鉱山軌道の時代からずっとここが終点で、拠点駅の雰囲気があるのはそのためだ。この先の貨物線だった線路をナント・グウェルノルまで旅客用として復活させる計画は、1968年に着工され、1976年にようやく完成した。

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アベルガノルウィンの村を遠望

アベルガノルウィンで降りた人はほとんどおらず、皆、終点まで行くようだ。傍らの谷が下りに転じる一方で、線路はなおも上り続ける。村へ直降していたインクラインの跡には、錆びた線路とワイヤを巻き取るドラムが残されていた。列車のスピードが落ち、崖際を回り込んでいくと終点だった。

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(左)村へ降りていたインクラインの跡
(右)アストウィスト・インクラインの図(タウィン・ワーフ駅前の案内板を撮影)

ナント・グウェルノルは、狭い岩棚の上にホームに面する本線と機回し線があるのみの、簡素な駅だ。先に延びていたアストウィスト・インクライン Alltwyllt Incline は撤去済みのため、鉄路としては完全に行止りになっている。機関車は切り離され、隣の機回し線をバックしていって、反対側に付け直された。列車は10分間停車の後、折返していく。ホームには、小屋が建つほかには土産物屋一つないので、乗客もとんぼ返りするのかと思ったら、そうでもない。多くの人はホームに立ち、戻る列車を見送っていた。周辺には遊歩道が整備されているので、ゆっくりと散策に出かけるのだろう。

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(左)ナント・グウェルノル駅に到着 (右)10分で機回しして折り返す

帰りの列車は、さっきのアベルガノルウィンで30分ほど停車する。小さな客車に1時間以上揺られてきたので、体を伸ばすのにちょうどいい。機関士や車掌らスタッフも同様らしく、駅舎の端のテーブルに用意されたコーヒーとサンドイッチを囲んで、談笑している。時計を見たら、もうすぐ12時だ。私も、もらったバウチャーを使って何か食べ物を仕入れに行くとしよう。

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アベルガノルウィン駅に到着
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アベルガノルウィン駅 (左)復路に30分の休憩タイムがある (右)出札窓口

次回は、マウザッハ河口のフェアボーン鉄道に乗る。

■参考サイト
タリスリン鉄道 http://www.talyllyn.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Talyllyn Railway Guide Book" Talyllyn Railway Company, 2016 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェアボーン鉄道

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フェアボーン Fairbourne ~バーマス・フェリー Barmouth Ferry 間 3.2km
軌間 1フィート1/4インチ(311mm)
開業 1895年、保存鉄道化 1916年

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機関士が巨人に見えるフェアボーン鉄道の機関車。背景はバーマス鉄橋

タリスリン鉄道訪問の後、フェアボーンに移動した。タウィン Tywyn からほんの20分ほどだが、この間に、山が海に直接落ちるヴリオグの断崖 Friog cliffs という難所がある。線路は、海面から高さ約30mほどの崖の中腹を通っていく。過去、落石による機関車転落事故が2度発生した現場で、列車は時速25~30マイル(40~48km)の徐行を強いられる。その代わり、眺望は何度見てもすばらしい。南から行くと、湾の向こうにバーマスの町が見え、次に長く延びる砂浜が近づいてきて、列車はそれに向かって飛行機が着陸するように高度を下げていく。

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(左)カーディガン湾に沿って北上
(右)マウザッハ川の河口に接近(フェアボーン Fairbourne 南方)
「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」に使用した写真を再掲
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ヴリオグの断崖を振り返る(翌日撮影)

フェアボーンの村はその砂浜に載っている。降りた駅も棒線上の無人駅だ。対するフェアボーン鉄道 Fairbourne Railway の始発駅は、通りの向かいに敷地を構えている。早めに乗車券を買い、施設をひととおり見て回った。鉄道は、ここから砂嘴の先端まで3.2km延びているが、軌間は1フィート1/4インチ(311mm)と、フェスティニオグやタリスリンの約半分だ。機関車はフルサイズ鉄道のそれを縮小して造られていて、分類としてはミニチュア鉄道(鉄道模型)になるそうだ。英語では Ridable miniature railway、つまり人が乗れる鉄道模型だ。

しかし、駅構内は立派に駅の要件を満たしている。並行する3本の線路に沿って、管理棟らしき長い建物が2棟建つ。中は切符売り場を兼ねた売店があり、その奥は本物(?)の鉄道模型のレイアウトスペースだ。建物の裏を覗くと、整備工場と留置線が見えた。小さな待合所だけのカンブリア線の駅とは、比べものにならない。ただ、なぜか客用のトイレはなくて、駅前の公衆トイレを案内された。旅客営業しているというより、趣味で動かしている鉄道だけれど乗ってもいいよ、というスタンスかもしれない。

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ミニチュア鉄道とはいえ、整備された構内をもつフェアボーン駅
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フェアボーン駅 (左)機回し用側線が分岐 (右)奥はヤードと機関庫につながる

ちょうど前の列車が帰ってきたところだった。牽いていたのは、759のナンバーをつけた「ヨー Yeo」号、デヴォン州リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railway の同名の機関車のハーフサイズモデルだ(下注)。1978年製で、後述するように、フランスの廃止線から移籍してきた。どれだけ小さいかを実感するには、写真を見るのが一番だろう。

*注 ヨーは、バーンスタプルを流れる川の名。

つないでいる客車は7両で、コンパートメントの箱型車両の間に、オープンタイプの屋根付きが1両、屋根なしが1両挟まっている。席は、当然そこから埋まっていく。ベンチシートは大人なら2人しか掛けられない狭さなので、現地の人たちは大きな身体を折り曲げて、かろうじて車内に納まる。

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車両の小ささを実感 (左)機関車「ヨー Yeo」号 (右)箱型客車

フェアボーン鉄道は、もともと1895年に、2フィート(610mm)軌間で造られている。フェアボーンの村を造る建築資材の運搬が敷設の目的だったが、まもなくフェリー乗り場へ行く観光客を乗せるようになった。1916年には、観光開発に専念するため、1フィート3インチ=15インチ(381mm)の蒸気鉄道に改軌された。所有者は何度か替わり、1940年にはいったん運行休止となっている。

第二次世界大戦を挟んで、鉄道は、実業家ジョン・ウィルキンズ John Wilkins により1947年に再開された。1960~70年代初期にはリゾート客の人気を集めて、利用者数がピークに達したものの、その後、実績が落ち込む。1984年には、エラートン家 Ellerton family に売却された。

ジョン・エラートン John Ellerton は、鉄道を立て直すために思いきった梃入れを図った。フェアボーンの駅舎を新設するとともに、機関車も一新しようと、ブルターニュのレゾー・ゲルレダン観光鉄道 Réseau Guerlédan Chemin de Fer Touristique の余剰機関車を調達した。この鉄道は、メーターゲージ線の廃線跡を利用して1978年に開業したのだが、資金不足で翌年あっけなく休止となり、新製間もない機関車の引取り先が求められていたのだ。軌間が1フィート1/4インチ=12インチ1/4(311mm)だったため、フェアボーンではそれに合わせる改軌工事が行われた。代わりに、働く場をなくした1フィート3インチ軌間の機関車のほとんどが、世界各地に放出された。

しかし、エラートン時代も長くは続かず、1995年にトニー・アトキンソン教授 Professor Tony Atkinson らが新たなオーナーに就任した。それ以降、機関車の信頼性を高め、線路の状態を改良するために、相当額の資金が投じられた。2011年に彼が亡くなったため、鉄道はまたも拠り所を失ったが、スタッフの削減や寄付の奨励によって、何とか今まで運行が続けられている。

線路が延びているのは、マウザッハ川 Afon Mawddach の三角江を閉ざすように延びる砂嘴の上だ。それ自体はただの砂山なのだが、先端のペンリン・ポイント Penrhyn Point からカンブリア線の名橋、バーマス鉄橋 Barmouth Bridge が正面に見える。また、そこに発着するフェリーを使って、対岸にある人気の観光地バーマス Barmouth へ渡ることもできる。単純に往復するもよし、旅に変化をつけるパーツにするもよし、愛好家はもとより、一般旅行者も十分楽しめる保存鉄道なのだ。

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フェアボーン鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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フェアボーン鉄道沿線の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

後の列車で来た家族と合流して、次の列車に乗り込んだ。機関車は「シェルパ Sherpa」号だ(冒頭写真の機関車)。レゾー・ゲルレダンから来た蒸気機関車の1両で、ブルーの塗装を含めてダージリン・ヒマラヤ鉄道のB形タンク機関車をモデルにしている。ただし、運転士の載るスペースからテンダーにかけては追加仕様だ。

15時40分、定刻に発車した。駅構内を抜けると、まずはビーチ・ロード Beach Road に沿う直線路を進んでいき、海岸に突き当たって右に折れる。そこが最初の停留所ビーチ・ホールト Beach Halt で、駅名が示すように、目の前に護岸堤防がある。その形から「ドラゴンの歯」と呼ばれるコンクリートの固まりの列は、第二次世界大戦中に造られた対戦車ブロックだ。

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バーマス・フェリー駅に向けて出発
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ビーチ・ロードに沿う直線路へ
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(左)最初の停留所ビーチ・ホールト
(右)大戦の記憶をとどめるコンクリートブロックの列「ドラゴンの歯」(カンブリア線車窓から撮影)

短いルートながら、途中に4か所の停留所があり、列車は律儀に停まっていく。次は9ホールのゴルフ場の最寄りとなるゴルフ・ホールト Golf Halt だ。駅名標に、アングルジー島の有名な世界一長い駅名(下注)よりも長い副駅名が記されているので注目したい。 "Gorsafawddachaidraigodanheddogleddollonpenrhynareurdraethceredigion"、全部で67文字ある。ウェールズ語の意味は、「カーディガン湾の黄金の浜の上のペンリン・ロードの北の平和な地にあるマウザッハ駅とそのドラゴン」、ドラゴンとはもちろん先述のドラゴンの歯のことだ。

*注 ノース・ウェールズ・コースト線のスランヴァイルプール Llanfairpwll 駅、正式名は、"Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch"(58文字)

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(左)67文字の副駅名が添えられたゴルフ・ホールトの駅名標
(右)砂嘴に広がるゴルフコース
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(参考)スランヴァイルプール駅の駅名標(2007年撮影)

続いてはループ・ホールト Loop Halt 。ループはパッシング・ループ passing loop(待避線)のことで、ここで列車交換がある。地図上ではずっと海岸線を走るように読めるが、海側は草の生えた砂の丘が終始続き、列車から大海原は見えない。逆に内陸側では、このあたりから砂嘴が細まってきて、潮の引いた三角江とそれを横断するバーマス鉄橋の眺望がどんどん開けていく。

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(左)ループ・ホールトで列車交換 (右)右手にバーマス鉄橋が見えてくる

最後の停留所はエスチュエリー・ホールト Estuary Halt 、エスチュエリーは三角江を意味する。一般道路はここが終端となり、先に進める乗り物は列車だけだ。

カルバートの短いトンネルを抜けて右カーブし、次いで左に大きく回り込みながら、列車は停止した。終点バーマス・フェリー駅に到着だ。客が全員降りると、さっそく機関車を前後付け替える機回し作業が始まった。線路は本来バルーンループになっていて、機回しの必要がなかったのだが、現在ループの合流部は閉鎖され、飛砂に埋もれかけている。

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(左)終点バーマス・フェリー駅に到着 (右)さっそく機回しが始まる
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バーマス・フェリー駅全景

右手、砂浜の向こうに、長さ699mのカンブリア線バーマス鉄橋が延びる(下注)。真正面で500mほどしか離れていないので、あまりに長く、カメラもパノラマモードでなければ全貌を写し取ることは不可能だ。今は干潮なので北端の水路を残してほとんど砂に覆われているが、潮が満ちてくれば海に浮かぶ橋になるのだろう。眺めていたら、南からちょうど列車が渡ってきた。

*注 バーマス鉄橋については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」も参照。

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バーマス・フェリー駅から見たバーマス鉄橋のパノラマ
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カンブリア線の列車が渡ってくる
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バーマス鉄橋側から見た、フェアボーン鉄道が走る砂嘴とバーマス・フェリー駅舎(中央の建物、満潮時に撮影)

対岸との間を結ぶバーマス・フェリーが、目の前の浜辺でこちらへ渡ってきた客を降ろしている。フェリーと言っても、クルマを積込むような船を想像してはいけない。実態はふつうのモーターボートを使った渡し舟だ。潮位が高いときは、町の護岸の下まで行ってくれるのだが、干潮の今は、突堤の海側の砂浜が船着き場になっている。ボートは砂に乗り上げるようにして止まり、鉤のような道具を舟先に引っ掛けて踏み板が渡される。客は、船頭氏に手を添えてもらって乗り降りする。チップほどの運賃を渡して、私たちもボートに乗り込んだ。

天気予報が言っていたとおり、昼過ぎから薄雲が出始め、3時ごろには日差しも途切れて、空全体が雲に覆われた。その分、海風が涼しい。乗船時間はものの数分だが、到着した地点から町まで、砂の上を延々歩かなくてはならなかった。

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バーマス・フェリー(渡し舟)で対岸へ

バーマスの町はよく賑わっていた。山と海と三角江に臨むシチュエーションは、かのワーズワースも賞賛したと言われ、今もなおカーディガン湾屈指のレジャースポットだ。行列ができていた店で買ってきたフィッシュ・アンド・チップスを、川沿いのテラスでほおばる。

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こじゃれた雰囲気をもつバーマス市街

家内がささやかなショッピングを楽しんでいる間、私は町はずれの高みまで行って、バーマス鉄橋の再俯瞰を試みた。列車はさきほど通ったばかりなので、主なき構図になってしまうのは承知の上だ。夕方というのに、鉄橋に併設されているフットパスを、人がけっこうぞろぞろと歩いている。

18時のプスヘリ Pwllheli 行きで帰るべく、カンブリア線のバーマス駅まで移動した。山側にある本来の駅舎はすでに閉まっていて、海側のホームへ廻れと案内が出ている。列車交換がないので、夕方以降は片側のホームを使用していないようだ。レジャー帰りのにぎやかな人たちに混じって、私たちも鉄橋のほうからやって来た気動車の客になった。

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マウザッハ川の三角江を横断するバーマス鉄橋
「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」に使用した写真を再掲
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カンブリア線バーマス駅、駅舎はすでに閉まっていた

次回はさらに南下して、アベリストウィスの鋼索軌道(ケーブルカー)に乗る。

■参考サイト
フェアボーン鉄道 http://www.fairbournerailway.com/
バーマス観光案内(公式サイト)http://barmouth-wales.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道

ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道

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コンスティテューション・ヒルを上る
アベリストウィス・クリフ鉄道

延長237m、高度差130m、開業1896年

ポースマドッグ滞在中で一番の長旅をして、南60kmにあるアベリストウィス Aberystwyth を訪れた。往きはカンブリア線を使ったのだが、ポースマドッグ方面からアベリストウィスへの直通列車はなく、途中で乗換えが必要だ。しかし、乗換駅ダヴィー・ジャンクション Dovey Junction は、寂しい原野のまん中の、常に風に吹き曝される場所にある。ここで20分近くも待つのはつまらないと思った。

実際、上下列車の交換は次のマハンレス Machynlleth で行われる。ダヴィー川沿いでは一番大きな町の玄関口だ。定時運転されているようなので、そこまで乗って折り返すことにした。時刻表ではわずか3分の接続だったが、問題なく乗り継ぐことができてほっとする。

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立派な駅舎が残るマハンレス駅での列車交換

カンブリア線は、アベリストウィス方面が実質的な本線だ。それを反映して、列車本数もいくらか多い。ダヴィー・ジャンクションから先は、まずダヴィー川 Dovey River (Afon Dyfi) の三角江の左岸に沿って海岸近くまで走る。ポースマドッグ方面への線路が川を渡る古い鉄道橋が、しばらく見えている。対岸のアベルダヴィー(アバダヴィー)Aberdovey の町を見届けた後、ボルス Borth を経て内陸に入っていく。波打つ丘陵地を越える切通しが終わると、左からヴェイル・オブ・レイドル鉄道 Vale of Rheidol Railway の狭軌線が寄り沿ってきて、いっしょに終着駅へ滑り込む。

*注 カンブリア線については本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」も参照。

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ダヴィー川を渡る鉄橋(ポースマドッグ方面の路線)が見え続ける
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(左)ヴェイル・オブ・レイドル鉄道の狭軌線が寄り沿う (右)アベリストウィス駅に到着

アベリストウィスは、カンブリア山地から流れ出るレイドル川 Afon Rheidol とイストウィス(アストウィス)川 Afon Ystwyth が合流する河口近くに位置する町だ。地名もイストゥイス川の河口(Aber + Ystwyth)から来ている(下注)。人口は1万数千人だが、中部ウェールズでは最大規模で、商業の中心地であり、1872年創立の大学を擁する教育センターの一面も持っている。

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アベリストウィス・クリフ鉄道(星印の位置)と周辺の鉄道網

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アベリストウィス市街周辺の地形図
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

行止りの線路の正面に建つ駅舎を出ると、目の前が市街地だ。北ウェールズの町に比べて都会的な雰囲気があるのは、通りの建物が黒い石積みではなく、煉瓦や漆喰の色壁だからだろう。駅前からテラス・ロード Terrace Road を直進し、目抜き通りを横断した先に、海が見えてくる。

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アベリストウィスの市街地 (左)テラス・ロード (右)ノース・パレード North Parade

カーディガン湾に臨むこの浜辺には、スランディドノで見たような弧状のプロムナード Promenade(海岸遊歩道)が延びる。なにしろ、鉄道が開通した当時、「ウェールズのビアリッツ Biarritz of Wales」(下注)と謳われて評判になったという町だ。高さの揃ったパステルカラーの建物やロイヤル・ピア Royal Peer のドーム屋根が、当時の面影を伝えている。だが、残念なことに今朝は曇り空で、リゾート気分に浸ろうにも、人影がほとんど見られない。

*注 いうまでもなくビアリッツは、フランス南西部ビスケー湾に面した高級リゾート。

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プロムナードを遠望。右端がロイヤル・ピア Royal Peer

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アベリストウィス・クリフ鉄道のリーフレット

アベリストウィスに来た主目的は、さっきの駅を起点とするヴェイル・オブ・レイドル鉄道という蒸気鉄道だが、その前に、近くの丘に上っていく別の鉄道に乗ろうと思っている。プロムナードの北端、コンスティテューション・ヒル Constitution Hill(ウェールズ語:クライグ・グライス Craig Glais)にあるアベリストウィス・クリフ鉄道 Aberystwyth Cliff Railway という鋼索鉄道(ケーブルカー)だ。

鉄道は、市街地と丘の上の公園を結んで1896年に開業した。こうした丘や崖の、麓と頂の間を行き来する鋼索鉄道は、その時代盛んに建設されていて、設計の第一人者がマークス卿 The Lord Marks と呼ばれたジョージ・クロイドン・マークス George Croydon Marks だった。

彼が手掛けた鋼索鉄道はイギリス各地に今も残っている。ノースヨークシャーのソルトバーン・クリフ・リフト Saltburn Cliff Lift(1884年開業)、ブリストル海峡に面したリントン・アンド・リンマス・クリフ鉄道 Lynton and Lynmouth Cliff Railway(1890年開業)、あるいはセヴァーン川 Severn 沿いのブリッジノース・クリフ鉄道 Bridgnorth Cliff Railway(1892年開業)などがそうだ。

*注 その他、廃止されたものでは、ブリストル Bristol のクリフトン・ロックス鉄道 Clifton Rocks Railway(1893年開業、1934年廃止)、スウォンジーのコンスティテューション・ヒル斜行鉄道 Swansea Constitution Hill Incline Tramway(1898年開業、1901年廃止)などがある。

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プロムナードから見たコンスティテューション・ヒル
Photo by Lesbardd from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

アベリストウィスの鋼索鉄道も、彼の主要な業績に数えられてきた。なぜなら、2001年12月にスコットランドのケアンゴーム登山鉄道  Cairngorm Mountain Railway が開通するまで、イギリス諸島における最長の鋼索鉄道だったからだ。

開通当時はウォーターバランスといって、上の駅で車両に設けたタンクに水を注ぎ入れ、その重みで斜面を下りる方式で運行されていた。下の駅にいる車両は水を抜かれて軽くなっているので、連動しているケーブルで引き上げられる。上の駅で必要とされる大量の水は、近くの泉や井戸から引いていた。地形図でも、上の駅の東方に "W"(井戸 Well の略)や "Spring" の注記が数か所見つかる。しかし、鉄道は1921年に電気動力に転換され、今に至っている。

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上の駅(サミット駅)の東方に井戸や泉の注記(青の円内)がある
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

現在の運行は4月から10月の毎日で、始発が10時、最終は17時だ。その始発時刻が近づいてきたので、山麓駅(プロムナード駅)のほうに足を向けた。市街地の北端、プロムナードから右に折れて少し上っていくと、"RHEILFFORDD Y GRAIG / CLIFF RAILWAY" とウェールズ語と英語で書かれた古めかしい煉瓦壁の建物が見つかる。これが乗り場だ。中の出札で4ポンドの往復乗車券を買い、階段ホームへ出ると、日曜大工で拵えたような飾り気のない車両が待っていた。

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山麓(プロムナード)駅 (左)煉瓦造りの外観 (右)飾り気のない車両が発車を待つ

定員は30名だが、初回の乗客は私のほかに、女性が一人のみ。景色には目もくれずスマホをいじっていた彼女は、山上のレストランの従業員だった。発車の合図があったかどうかもわからないうちに、車両は動き出した。時速は4マイル(6.4km)、ケーブルの動く音がするだけで、静かに上っていく。線路は全線複線で、車両がすれ違う区間だけ、線路の間隔を拡げてある。

延長778フィート(237m)のルートの大半が、掘割の中だ。しかし、麓側の窓から、アベリストウィスの市街地と弧を描く海岸線が見えている。それを写真に撮ろうとするのだが、上空を木柵の跨線橋が何本も横断しているので、そのたびに視界が途切れる。実は、線路設計に際して、以前からあった丘を巡るフットパスを切断しないように、わざわざ線路を切通しにして跨線橋を渡したのだそうだ。そのために、工事では12,000トンもの岩を切り出す必要があった。

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(左)山麓駅を後にする (右)海岸線の眺望はしばしば跨線橋で遮られる

正味の乗車時間は5分程度だろう。麓の駅に比べて、サミット駅は掘っ立て小屋のような簡素な造りだ。駅の外にはコンスティテューション・ヒルの高台が広がっている。遊戯施設やレストランが立ち並び、ちょっとした遊園地の雰囲気がある。朝早いので、どこもまだ稼働していないが、それでも続行便で、カップルや家族連れが何組か上がってきた。

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(左)山上(サミット)駅に到着 (右)山麓駅に比べて簡易な造り

この丘は、地形的に見れば、東のカンブリア山地から延びてきた丘陵が海に没する先端部に当たる。上からは見えないが、足元の海岸には高さ数十mの波蝕崖が連なっているはずだ。それだけに展望は抜群で、市街地とプロムナード、その南端の古城がある岬や、市街の背後に横たわる丘陵地まで一望になる。風のない穏やかな日で、陸上は靄でかすんでいるが、滞在中に少しずつ晴れ間が広がってきた。

ケーブルカーを前に置いてこの風景が眺められる場所を探し回った。上ってくる車内では疎ましく思ったのに、最適のお立ち台になってくれたのは、あの跨線橋だった。

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コンスティテューション・ヒルからの眺め (左)南方向 (右)北方向
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アベリストウィス市街のパノラマ

次回は、ヴェイル・オブ・レイドル鉄道の蒸機列車に乗る。

■参考サイト
アベリストウィス・クリフ鉄道(公式サイト)
http://www.aberystwythcliffrailway.co.uk/
アベリストウィス観光サイト https://www.aberystwyth.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

ウェールズの鉄道を訪ねて-ヴェイル・オブ・レイドル鉄道

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アベリストウィス Aberystwyth ~デヴィルズ・ブリッジ Devil's Bridge 間 18.91km
軌間 1フィート11インチ3/4(603mm)
開業 1902年、保存鉄道化 1989年

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デヴィルズ・ブリッジ駅構内を遠望

カンブリア線のアベリストウィスは頭端式のターミナルだ。乗降用は1線だけの簡素な配線だが、ホームには幾何学模様をあしらった美しい屋根がかかる。正面には、大都市によくあるように、通りに面して間口の広い、垢抜けた雰囲気の石造りの建物が建っている。これは旧駅舎で、今はアル・ヘン・オルサーヴ Yr hen Orsaf(旧駅の意)という名の洒落たパブ兼ホテルだ。カンブリア線の切符売り場は、ホームに隣接した煉瓦の建物の中にある。

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アベリストウィス駅
(左)通りに面した旧駅舎、今はパブ兼ホテルに (右)頭端式の発着ホーム

今から乗るヴェイル・オブ・レイドル鉄道 Vale of Rheidol Railway(下注)はこの駅が起点で、レイドル川 Afon Rheidol の谷を遡ってデヴィルズ・ブリッジ Devil's Bridge まで、18.9kmの路線だ。軌間は1フィート11インチ3/4(603mm)の狭軌で、イギリスでは他に、南ウェールズのブレコン・マウンテン鉄道 Brecon Mountain Railway にしか例がない。もっとも、開通当時はフェスティニオグなどと同じ1フィート11インチ半(597mm)だったとされ、途中で微妙な調整が加えられているようだ。

*注 ヴェイル Vale はヴァレー Valley と同系語で、谷を意味するため、鉄道名は「レイドル渓谷鉄道」とも訳される。

ホームに出ると、標準軌線と狭軌線の線路が、頭端駅へ並んで入ってきている。それで、切符売り場もてっきりカンブリア線の隣にあるのだろうと見回したが、ない。慌てて近くの係員氏に聞くと、ホームの先だよ、と言う。線路に沿って通路が続き、200mぐらい歩いたところに、ようやく売店併設の小屋があった。切符を買った後、乗場へはまた本駅舎のほうへ戻るので、それだけで結構歩かされる。ついでに言うと、帰りも同じで小屋を経由しないと外に出られないため、出入口がしばらくの間混雑した。

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(左)ヴェイル・オブ・レイドル鉄道のホームは長い通路の先
(右)旧カーマーゼン線のスペースが転用された

2007~08年ごろの写真には、本線と機回し線の間に嵩上げしていないホームが見え、切符売り場も線路先端のすぐ右にある。以前はずいぶん手近な場所に、旅客用設備がまとまっていたのだ。ただこの場合、ホームへの通路が機回し線を横断して危険なのと、客車にステップで乗り込む不便さがある。その対策の結果が現在の形なのだろうか。

車庫の方から列車を牽く機関車がやってきた。スラウェリン Llywelyn の名をもつ8 号機だ。サイドタンクに "GREAT WESTERN" と大書されているのは、この路線がグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway (GWR) の一支線になった1923年に、自社のスウィンドン工場 Swindon Works で製造されたことを意味している。落ち着いた緑の塗装も当時の再現だという。機関車は、開通当時からいた旧型機を参考に、長所は引き継ぎ、短所は改良する形で造られたいわば2世機だ。

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8号機スラウェリン、デヴィルズ・ブリッジ駅にて

客車は、屋根つきオープン車両3両、箱型車両3両、1等車1両という構成だった。乗客の人気がオープン車両に集中するのは学習済みなのだが、ホームで写真を撮っているとつい出遅れてしまう。箱型車両のほうに回ると、窓は締め切りで、両側に2か所ずつあるドアだけがベルトのついた落とし窓になっている。往きはまだ席に余裕があったので、ドアの前をしっかり確保した。この客車には貫通路はなく、1つのドアから前後4シートへ行ける構造で、ドア前のシートが2人掛け、ほかは3人掛けだ。軌間はタリスリン鉄道より狭いのに、客車の内寸は逆にこちらのほうが広いような気がする。

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簡易なベンチが並ぶオープン客車

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箱型客車の内部は3区画に分かれ、各区画に向い合せのシートを2~3組配置

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ヴェイル・オブ・レイドル鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

ヴェイル・オブ・レイドル鉄道は今でこそ、公益財団 Charitable Trust が所有する保存鉄道だが、その前はれっきとした英国国鉄 British Rail の路線で、1968年からは国鉄最後の蒸気鉄道として知られていた。年譜を遡ると、本来は1902年に、谷で伐り出した木材(下注)と鉛鉱で産出する鉱石を搬出するために造られた鉄道だ。貨物はアベリストウィスで標準軌線の貨車に積み替えられるか、港への支線を通って船に引き継がれていた。しかし、輸送の主軸はまもなく貨物から、悪魔の橋やその周辺を訪れる観光客に移る。

*注 木材は南ウェールズの炭鉱で、坑道の支柱に使われた。

1913年にカンブリア鉄道 Cambrian Railways に吸収されるが、1922年の4大会社(ビッグ・フォー The Big Four)への集約で、グレート・ウェスタン鉄道の路線となる。グレート・ウェスタンは起点駅の移転や、先述した機関車の更新など、路線に積極的な投資を行った。一般旅客の道路交通への移行で1931年に冬季の運行を中止してからは、オープン客車の増備など観光列車の充実に力を注いだ。

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駅名標、ヴェイル・オブ・レイドル鉄道乗換の記載も

第二次世界大戦後の1948年に4大会社は国有化され、英国国鉄に統合された。路線は、1963年の有名な「ビーチング報告書 Beeching Report」(下注)が巻き起こした嵐の中でも生き残ったが、中間の待避所は撤去され、全線1閉塞となった。1966年にはアベリストウィス駅で、廃止されたカーマーゼン線 Carmarthen line の敷地を使ってルート変更が実施され、幹線の機関庫が狭軌用に転用された。標準軌線の隣のホームを使う現在の形になったのはこの時だ。

*注 リチャード・ビーチング博士 Dr. Richard Beeching による、英国鉄道の徹底的合理化を進言した報告書。これに伴う大規模な路線廃止は「ビーチングの斧 Beeching's Axe」と呼ばれた。

しかし、大鉄道の傘下で続けられた路線の歴史は、サッチャー政権時代に幕を閉じる。国鉄合理化策の一環で経営を切り離すことになり、1989年に民間に売却されたのだ。しかし、ウェールズの他の多くの保存鉄道と異なるのは、ボランティアの手を借りずに、有給のスタッフだけで運営されている点だという。観光鉄道としてそれだけの集客力があるということだろうか。

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アベリストウィス~アベルフルード間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

雲の隙間から薄日もさす中、列車は12時15分定刻に発車した。車庫の脇をすり抜け、構内から出て、しばらくはカンブリア線の線路と並行する。これまで訪れた保存鉄道と雰囲気が違うように感じるのは、都市郊外の倉庫や工場が見える一帯を通っていくからだ。一つ目の停留所スランパダルン Llanpadarn もそのエリアにあるが、列車交換がないのに何分も停まった。再び走り出すと、カンブリア線が左に離れていく。レイドル川を木製トレッスルで渡って、線路は左岸に移った。この後はずっと左側に景色が開ける。右手の線路際にはまだ殺風景な工業団地が続いているが、左は茂みの間に河原が顔を出す。

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(左)しばらくカンブリア線と並走 (右)レイドル川を木製トレッスルで渡る

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カペル・バンゴル駅 (左)工事用車両を留置する側線 (右)小さな駅にもフラワーポットが

二つ目の停留所グラナラヴォン Glanyrafon が、ちょうど開発地と田園風景との境目だ。列車は、広い谷の中の牧草地を突っ切っていくが、のんびりと寝そべる牛たちはびくともしない。次はカペル・バンゴル Capel Bangor 駅で、対向設備とともに工事用の車両を留置しておく側線がある。起点から7.2km、すでに20分ほど揺られてきたが、標高はまだ23mに過ぎない。線路が載る地形としてはここまでが平地で、この後は、ヴェイル・オブ・レイドル Vale of Rheidol(レイドル川の谷、ウェールズ語ではクーム・レイドル Cwm Rheidol)の南壁にとりついて、じわじわと高度を上げていくことになる。

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(左)のどかな牧場の風景 (右)乗馬教室?の生徒たちが手を振ってくれる

駅を出ると、まず右の車窓に森になった谷壁が迫ってくる。それから少しずつ川が流れる谷底を離れていく。すでに1:50(20‰)~1:48(20.8‰)の急勾配が断続していて、せわしないドラフト音が数両隔たったここまで届いてくる。時折、ポーッポッという甲高い汽笛が山にこだまする。いっとき森が途切れて、のびやかな牧場の風景が開けたと思ったら、ナンタローネン Nantyronen の停留所だった。待合所とベンチは作りたてのような艶を保ち、真っ赤なゼラニウムがアクセントをつけている。ホームの端に設置された水タンクから、機関車は往路最後の給水を受けた。

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絵のように美しいナンタローネン駅では給水停車

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刈取りの済んだ草地にヘイロールが転がる

次のアベルフルード Aberffrwd は起点から12.5kmで、すでに全線の2/3を走ってきたことになる。標高も85mまで上がり、周囲は森で、いよいよ山の気配が漂ってきた。ここも対向設備がある駅だ。風景に集中していたせいで、谷を降りてきた列車に気づくのが遅れ、機関車の写真を撮り損ねた。現在、この鉄道で稼働中の蒸機は2機しかなく、牽いていたのは黒光りの9号機「プリンス・オブ・ウェールズ Prince of Wales」に違いないのだが、結局拝めずじまいだった。

Blog_wales_rheidol13(左)アベルフルード駅 (右)山の気配が漂ってきた

谷の底は平地で、おおかた生垣で区切った放牧地に利用されている。その草の絨毯に割り込むようにして、クーム・レイドル貯水池が現れた。斜面の深緑と薄曇りの空を静かな水面に映している。日差しは途絶えたが、天気はなんとか持ちそうだ。谷の斜面を切り欠いて造られた線路は、細かいカーブを繰り返す。左カーブのときが狙い目なので、カメラを構えた。車両の前の方にも中年の鉄道ファンが乗っていて、同じタイミングで窓から大きな体を乗り出している。そのつど「こんなのが撮れた」と言うように隣席の奥さんにモニターを見せるのだが、あいにく奥さんの反応はそっけない。他人事とも思えず、苦笑してしまう。

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(左)クーム・レイドル貯水池を見下ろす (右)奥に見える川べりの建物は発電所

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レイドル谷の斜面を上る。窓から大きな体を乗り出す鉄道ファン

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アベルフルード~デヴィルズ・ブリッジ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

アベルフルードからは本格的な上りで、終点近くまで1:50の勾配が途切れることがない。機関車を操る機関士にとっては正念場だ。途中にレイドル・フォールズ Rheidol Falls とリウヴロン Rhiwfron の2か所の停留所があるのだが、どちらも速度を緩めることなく通過した。谷底からの高度差はすでに120mほどになり、いつのまにかレイドル川も森の陰に沈んでしまった。最後は、河川争奪で生じたV字の渓谷(本稿末尾で図解)を左に見送って、比較的なだらかな台地の上へ這い上がる。切通しをくぐれば終点のデヴィルズ・ブリッジだ。

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(左)レイドル・フォールズ停留所の東方、緑の谷底に小さな採掘跡
(右)カーブも勾配も厳しさを増す

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レイドルのV字谷を左に見送る

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(左)台地の上へ這い上がる (右)終点デヴィルズ・ブリッジ到着

アベリストウィスからちょうど1時間、時刻表どおり13時15分の到着だった。駅は広場と一体になっていて、着いた客と乗り込む客で屋台も土産物屋も繁盛している。その隣では、子供たちが小型機関車マーガレット Margaret の乗車体験を楽しんでいた(冒頭写真)。

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デヴィルズ・ブリッジ駅
(左)機関車は帰路の準備 (右)機回し線は切通しの中へ続く

駅名になっているデヴィルズ・ブリッジ(悪魔の橋)というのは、駅前の道路を左手に400mほど下っていったところにある。マナッハ川  Afon Mynach が刻んだ深い谷に、3本の橋が上下に重なって架かっている。ここは近辺の観光名所で、沿線にほとんど集落のない小鉄道が廃止を免れてきたのも、これがあるおかげだ。一番下にあるのが悪魔の橋の伝説をもつ11世紀の石造アーチ橋で、その上にあるのが1753年建造の石造アーチ橋、現在使われている一番上の鉄製の桁橋は1901年に架けられた。

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(左)現 悪魔の橋。2代の石橋はこの直下に
(右)デヴィルズ・パンチボウルへ降りる遊歩道(橋上から撮影)

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(左)有料遊歩道の入口 (右)時間のない人は向かいのパンチボウル入口へ

悪魔の橋伝説は、ヨーロッパ各地で語り継がれている(下注)。たいていは村人の前に悪魔が現れて、橋を架ける話を持ち掛けるところから始まる。この橋を請け負った悪魔も、最初に橋を渡った者の魂を報酬にもらうと宣言するのだが、橋が完成したとき、老婆が投げたパンを追って犬が先に渡ってしまう。悪魔は約束が違うと腹を立てて立ち去り、橋だけが残ったというストーリーだ。

*注 本ブログ「MGBシェレネン線と悪魔の橋」で扱ったスイスアルプス山中の石橋もその一つ。

橋は親亀子亀のように重なっていて、しかも上の橋ほど道幅が広いので、古い橋を見たければ谷へ降りるしかない。それで、橋の北詰の道路脇に、溪谷を巡る有料遊歩道の入口がある。左側のそれがメインルートで、3代の橋を仰ぎながら、さらに渓谷の底の、マナッハ川がレイドル川に合流する地点まで降り、対岸に上ってくる。要する時間は少なくとも45分だ。地形図によれば垂直距離約100mの往復が必要で、かつ、滝のしぶきで濡れて滑りやすい石段が続くから、結構ハードなコースに違いない。

それでガイドブックは時間のない人、脚力に自信のない人にもう一つのルートを薦めている。道路右側にある別の入口から入って、大型の甌穴デヴィルズ・パンチボウル Devil's Punchbowl を見に行くというものだ。これは10分で往復できるが、橋は直下から見上げる形になる。

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渓谷を巡る2本の遊歩道の見取り図
橋から見て左入口がメインルート、右入口がパンチボウル見学の遊歩道

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3代重なる悪魔の橋とマナッハ川溪谷
Photo by William M. Connolley from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

折返し列車の発車まで1時間の余裕があるのだが、駅の周辺で写真を撮っていたら、遊歩道にチャレンジする時間がなくなってしまった。残念だが、悪魔の橋がどのような形をしているのかは、ウィキメディアの写真でご覧いただくことにしよう。

■参考サイト
3代重なる悪魔の橋(Wikimedia、右写真)
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Devils-bridge-pano.JPG

2代目現役時代の写真(Wikimedia)
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Devils_Bridge_Aberystwith_Wales.jpg

ヴェイル・オブ・レイドル鉄道(公式サイト)
http://www.rheidolrailway.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Vale of Rheidol Railway Visitors Guide" Vale of Rheidol Railway および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道
 ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道

 

【参考】デヴィルズ・ブリッジ付近の河川争奪

左図:
1.当地点から上流は、かつてはるか南のカーディガン Cardigan へ流れ下るタイヴィ川 Teifi の流域だった。
2.第四紀の間に、イストウィス(アストウィス)川 Ystwyth が、谷頭侵食によってタイヴィ川の上流部を争奪した。
3.次いでレイドル川 Rheidol が谷頭侵食によって、イストウィス川となった上流部を争奪した。デヴィルズ・ブリッジ付近ではレイドル谷の下刻が進行し、V字谷が生じた。

右図:
デヴィルズ・ブリッジ以南の、もとのタイヴィ川の流路(推定)を矢印で示す

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タイヴィ川流域の河川争奪過程
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デヴィルズ・ブリッジ~トレガロン湿地北部Tregaron Bog Northの地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I

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カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間 39.7km
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1922年、休止 1936年(旅客)1937年(貨物)、保存鉄道開業 1997~2011年

ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)の起点駅は、カーナーヴォン城の高い城壁の上からよく見える。

北ウェールズをめぐる最終日は、メナイ海峡を扼する要衝カーナーヴォン Caernarfon(下注)まで足を延ばし、狭軌保存鉄道でポースマドッグへ戻るという旅程を立てた。昨晩から雨が続いている。朝もけっこうな降り方で、ホテルの斜め向かいにあるバス停へ行くのに、ウィンドブレーカーのフードではしのげず、傘を必要とした。路線バス1系統で野や丘を越えて、カーナーヴォンまでは45分ほどだ。

*注 カーナーヴォンはかつて Carnarvon と綴ったが、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。ウェールズ語の発音はカイルナルヴォン(ルは巻き舌)。

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カーナーヴォン城の塔屋から東望
WHRカーナーヴォン駅は中央右寄り、市街擁壁と二車線道路の間にある。右はセイオント川

到着したバス停から南へ少し歩けば、カッスル・スクエア Castle Square という広場に出る。目の前にそびえるカーナーヴォン城は、コンウィ Conwy やボーマリス Beaumaris、ハーレフ Harlech の古城とともに、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服のために築いた要塞だ。4か所まとめて世界遺産に登録されている。中でもここは首都の居城で、敷地の広さは先日行ったコンウィ城のざっと2倍はあるだろうか。高塔の数も多くて立派だ。

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(左)カーナーヴォンのバスターミナル (右)カッスル・スクエア、右奥に城が見える
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メナイ海峡を扼する要衝の地カーナーヴォン城を東側の塔から西望
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中庭の円壇で現チャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ戴冠式が行われた
右写真は当時の様子を伝えるパネル

城の見学を終えて、WHRの駅に通じる坂を下った。市街地を載せる段丘の下、セイオント川 Afon Seiont 沿いの低地の一角に、現在の駅はある。線路はプラットホームに接した本線と機回し線の2本きりで、出札兼売店のある建物も簡素な平屋のプレハブ仕立てだ。敷地に余裕がないので、運行基地はここではなく、途中のディナス Dinas に置かれている。

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WHRカーナーヴォン駅
(左)折返し運転に備えて機回しの最中 (右)線路2本きりの狭い構内

混まないうちにと、ポースマドッグまでの片道乗車券を買い求めた。途中のベズゲレルトに寄り道するつもりだが、同一日、同一方向なら途中下車は自由だと聞いた。正規運賃が大人25.60ポンドのところ、エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass を見せたので半額になる。大人が同伴する15歳までの子ども1人はもともと無料だから、結果的に大人1人の正規運賃で家族4人が乗れるわけだ。しかし、あまり安いのも、なんだか悪いような気がする。

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WHRの片道乗車券

ちょうど折り返しとなる列車が到着したばかりで、降りた客が城や旧市街のほうへぞろぞろと移動するのが見える。駅の目の前に観光名所があるというのは、確かに大きなアドバンテージだ。しかし、WHRの魅力はそれにとどまらない。

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跨線橋から城の方角を望む。手前の赤茶色の建物が出札兼売店

カモメが飛び交うこの場所から、列車は内陸に入っていく。初めは牧場や林が現れては消え、中盤では、スノードニア国立公園の壮大な山岳風景が展開する。波静かな湖、清流の渓谷、天気がよければウェールズ最高峰スノードン山の雄姿も眺められる。後半は、農地が広がる沖積低地を走って、再び港の前に出る。景色はすこぶる変化に富んでいて、イギリス屈指の絶景路線といっても決して過言ではないのだ。

とはいえ、全線を乗り通すとなると、最速便でも2時間5分かかる。熱心な鉄道ファンでない限り、日帰りの往復乗車には少なからず忍耐が要求されよう。列車交換のある峠の駅リード・ジー Rhyd Ddu で折返すか、全線を走破するにしても、私たちのように片道は路線バスに任せるのが現実的だと思う(下注)。

*注 路線バス1系統はWHRのルートではなく、A487号線(旧国鉄アヴォンウェン線 Afonwen Line 沿い)を通るから、リード・ジーやベズゲレルトは経由しない。

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ウェルシュ・ハイランド鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

WHRの運行期間は2016年の場合、2月中旬から11月末の間だ。残念ながら列車本数は少なく、中間期は1日2往復、夏のピークシーズンでも3往復しかない。当初の運行計画は1時間間隔だったし、手元にある2007年の時刻表(当時はリード・ジーまでの部分開業)でも、繁忙期5往復、最繁忙期には6往復の設定がある。どうやらその後、大幅な見直しがかけられたようだ。思うように利用者が増えなかったのだろうか。本日のカーナーヴォン発は10時、13時、15時45分。私たちは13時発に乗るつもりだ。

ホームでは、その列車が折り返しの発車を待っている。牽引する蒸気機関車は、クリムソンレーキ(深紅色)をまとう1958年製の138号機。南アフリカで働いた後、WHRにやってきた。ボイラー部分が2つの台車にまたがって載る、ガーラット Garratt と呼ばれる連接式機関車だ。急曲線や勾配区間に適応しているので、線形の厳しいこの路線で第二の人生を送っていて、同僚機も数両在籍する。

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ガーラット式機関車138号機

客車は8両編成だが、さまざまな形式が混結されている。窓のないオープン形も1両挟まっているが、雨が吹き込んで、もはやシートはびしょ濡れだ。私たちはガラス窓のある3等車両に席を取った。貫通路をはさんで、2人掛けと1人掛けのボックス席が並ぶ。座席のモケットにはWHRとFR(フェスティニオグ鉄道)の図柄が織り込まれ、テーブルにも両線の略図が描かれている。2本の鉄道は今、一つの会社のもとで、姉妹鉄道のように運営されているのだ。

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(左)客車内。座席のモケットにはWHRとFRの図柄
(右)座席テーブルの路線図もWHRとFRを関連図示

あいにくの天気のせいか、乗客数はそれほど多くない。この車両も空席だらけだったが、発車間際に団体客がぞろぞろと入ってきて、急に賑やかになった。残念ながら窓は固定式で、撮影には向かない。結局、皮のベルトで窓の開閉を調節できるデッキドアの前にいる時間のほうが長かった。

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カーナーヴォン~スノードン・レーンジャー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 115 Pwllheli, 107 Snowdon いずれも1959年版 に加筆

カーナーヴォンを発車すると、初め、セイオント川の蛇行する谷に沿った後、鉄橋で対岸に渡る。それからしばらく、緑の牧場の中を行く。線路の右側(海側)をローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway(全国自転車道 National Cycle Route 8号線の一部)が並走している。それに気を取られて、途中のボントネウィズ停留所 Bontnewydd Halt の通過には、まったく気がつかなかった。リクエストストップなので、乗降客がいなければ停まらない。

約10分走り続けて、ディナスに着いた。かつてディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれた駅だ。狭軌線(下注)が運んできたスレート貨物を標準軌貨車に積替えていたので、構内は十分な広さを持っている。そこを買われて、駅は、カーナーヴォンの代わりに、保存鉄道の北の拠点に位置づけられた。機関庫や整備工場が整備され、側線は保存車両や工事車両のねぐらになった。ホームの端には石造りの小さな駅舎も見えるが、これは当時から残る建物を修復したのだという。

*注 商業鉄道時代のWHR、およびその前身のノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways。なお、現WHRのカーナーヴォン~ディナス間は標準軌の旧国鉄線だった。

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ディナス駅 (左)側線には工事用車両が留置 (右)ホーム先端の建物は復元駅舎

駅を出ると、列車は左に大きくカーブして、山手へと進んでいく。牛たちが寝そべる牧場があるかと思えば、こんもりとした森を境に、野の花が咲き乱れる草原が現れる。通過したトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction は、その名が示すように、旧線時代はブリングウィン Bryngwyn 支線を分岐していた。モイル・トラヴァン Moel Tryfan のスレート鉱山へ通じる路線で、今もパブリック・フットパスとして跡をたどれる。

左車窓に、グウィルヴァイ川 Afon Gwyrfai の流れが顔を見せるようになる。この後、峠までこの川が旅の友になるだろう。次のワインヴァウル Waunfawr 駅は、森に囲まれたひと気のない場所だが、跨線橋が架かる広い島式ホームで、機関車の給水タンクもある。保存鉄道の延伸過程で、2000~03年の間、列車の終点になっていた名残に違いない。しかし、この列車を乗り降りする人は一人もいなかった。

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(左)牧場で牛たちが寝そべる (右)付かず離れず流れるグウィルヴァイ川
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跨線橋の架かるワインヴァウル駅

川を何度か渡るうちに山が近づいてくるが、雨がひとしきり強くなり、降りてきた雲で稜線は隠されたままだ。プラース・ア・ナント Plas-y-Nant 停留所の手前では、谷が急に狭まってくる。川は早瀬に変わり、列車は急カーブに車輪をきしませながら、ゆるゆると通過した。

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プラース・ア・ナントの手前でいったん谷が狭まる

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

やがて右手にクエリン湖 Llyn Cwellyn の広い水面が広がって、乗客の目を奪う。水位安定のために人工の堰が造られているが、湖の出自は、氷河の置き土産であるモレーン(堆石)で堰き止められた、いわゆる氷河湖だ。浅いように見えても、水深は120フィート(37m)ある。線路は少しずつ坂を上っていくので、車窓から湖を俯瞰する形になるのがいい。

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(左)クエリン湖が見えてくる (右)霧雨に煙る牧場と湖面

湖面の際まで続く斜面の牧草地で、羊たちが草を食んでいるのが見える。のどかな景色を楽しみたいところだが、降りしきる雨のせいで湖面すら霞んできた。天気が良ければ進行方向にスノードン山頂が見えるのに、今はまったく霧の中だ。登山口の一つになっているスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger の停留所もあっけなく通り過ぎた。

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(左)クエリン湖が遠ざかる (右)スノードン山腹を流れ落ちるトレウェイニズ川 Afon Treweunydd

クエリン湖が次第に後方へ遠ざかる。列車は、山から下りてくる急流をカーブした石橋でまたぎ、なおも、岩が露出するスノードンの西斜面で高度を上げていく。山襞に沿って急曲線が連続するので、前を行く機関車もよく見える。クエリン湖は白く霞んで谷を覆う霧とほとんど見分けがつかないが、間もなく見納めだ。ひときわ大きな岩山を左へ回り込んでいくとリード・ジー、全線のほぼ中間地点に到着する。

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スノードン山の西斜面で高度を上げていく
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(左)リード・ジー駅に到着 (右)待合室と機関車の給水施設
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カーナーヴォン行き列車と交換、再び雨が強まる

旅の続きは次回に。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト) http://www.whrsoc.org.uk/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
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 スノードン登山鉄道 I-歴史
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ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II

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まるで難読地名のようなリード・ジー Rhyd Ddu は、ウェールズ語で黒い浅瀬を意味するそうだ。前身であるノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways の最終到達点であり、今のウェルシュ・ハイランド鉄道(以下、WHR)でも2003~09年の間、終着駅だった。

*注 日本語では「ジー」になってしまうが、Ddu の発音は [ðíː]。

現行ダイヤでは主としてここで列車交換が行われ、スノードン山頂をめざす登山客や、折返し乗車または観光バスに乗継ぐツアー客が乗降する。駅の周りは、旧駅跡を転用した駐車場と、下手の道端にB&Bが数軒あるだけの寂しい場所だが、列車が着くときだけ活気が蘇る。この列車からも、雨のホームに何人か降り立った。

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雨のリード・ジー駅で列車交換

右手は、線路と並行する道路の向こうに、スリン・ア・ガデル Llyn-y-Gader の水面と、青草が覆う茫漠とした湿地が広がっている。にわかに信じがたいが、この平たい土地がルート上のサミットだ。線路が右カーブして道路の下をくぐるとすぐ、線路の右脇に標高650フィート(198m)のサミットを示す標識が立っている(実物は見損ねたが)。ピッツ・ヘッド・サミット Pitt's Head Summit という名は、畑の中に鎮座している大岩が、19世紀初めのイギリスの首相の横顔に似ているからだそうだ。

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

分水界を越えると、長い下り坂になる。それも1:40(25‰)の勾配が6kmほど続く、ポースマドッグ方から来る機関車にとっては苦難の坂道だ。この急勾配でも直登はできず、高度を稼ぐために、途中に半径60mのS字ループ S-bend を2か所挟んでいる。

上のループは通称「ウェイルグロズ(牧草地)ループ Weirglodd S-bend」、下のループは「クーム・クロッホ(鐘谷)ループ Cwm Cloch S-bend」で、その中間に、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest(国有林)のキャンプ場最寄りとなるメイリオネン Meillionen の停留所がある。興味深い線形なので車窓を注目していたが、残念ながら、森の中を走るためにあまり視界がきかない。下のループのくびれの部分で、かろうじて後で通る線路を見つけることができた。

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(左)森のキャンプ場最寄りのメイリオネン停留所を通過
(右)下のループでは、後で通る線路が見えた

ベズゲレルト Beddgelert 駅は、長坂を降り切る手前にある。カーブした島式ホームで、坂を上る機関車のために、給水設備も用意されている。美しいことで知られる村の玄関口だが、駅へのアクセスはフットパスと車椅子用の迂回路のみだ。村から行く場合、表通り(A498号線)の観光案内所前にあるバス停が目印になる。脇道の奥に駐車場があり、その一角の木柵を開けて小道を上ると、突然線路とホームが現れる。

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(左)ベズゲレルトで途中下車 (右)先を急ぐ列車を見送る
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村から駅へのアプローチ
(左)駐車場の一角にある木柵を開ける (右)未舗装の小道を上ると駅が現れる

なぜこれほど目立たなくしてあるのか。資料によると、リード・ジーから保存鉄道の延伸が計画されたとき、村民が駅の開設に強く反対したのが原因らしい。曰く、駅が大きくて風景を侵害する、居住地に近すぎる、村へ入る道路の交通量が増加する…。どうやら、鉄道によって静かな村に喧噪が持ち込まれることを懸念したようだ。スノードニア国立公園局も同調して、リード・ジーを除き国立公園内に暫定終点を置かないことを、建設の許可条件に盛り込んだ。そのため、2009年4月に駅が開業したものの、小さな待合所が置かれただけで、本格的な旅客用施設は未整備のままとなった。

しかし実際のところ、1日の列車が最大3往復では、目くじらを立てるような騒音被害は起こりそうにない。反対していた住民も肩透かしを食らった気分だろう。それどころか鉄道は、新たな効果をもたらした。鉄道が通じていなければ私たちは村を知らなかったし、この駅で下車した人は、他にも10人は下らなかったから。

幸運なことに、あれほど辺りを煙らせていた雨が、ここへ来て上がり、雲に覆われた空も明るさを取り戻しつつある。先を急ぐ列車を見送って、村に通じる小道を下りた。表通りに出ると、左手が灰茶色の石造りの家の建ち並ぶ村の中心部だ。歩いていくと、まもなくコルウィン川 Afon Colwyn に行き当たった。水音を立てながら流れ下る川を、古びた石橋が2連のアーチでまたいでいる。橋と、たもとに建つ宿屋との取り合わせは、素朴ながら凛とした雰囲気で人目を惹いた。

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コルウィン川の石橋と、たもとに建つ宿屋

橋のすぐ先でコルウィン川は、東から来るグラスリン川 Afon Glaslyn に合流する。家内たちが土産物屋を巡っている間に、私は通りから逸れて、川沿いの牧草地にある伝説の猟犬ゲレルトの墓を訪ねた。それから下流の鉄橋のところまで行き、谷を遡ってくる列車をカメラに収めた。村に戻った後は、ポースマドッグ行きの発車時刻までゆっくりティータイムを楽しむことができた。

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(左)グラスリン川沿いの散歩道 (右)村のセント・マリー教会
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猟犬ゲレルトの墓 (左)墓は突き当たりの独立樹の根元に (右)墓碑銘
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グラスリン川を渡るカーナーヴォン行き列車

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ベズゲレルト~ポースマドッグ・ハーバー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図116 Dolgellau 1953年版 に加筆

ベズゲレルト駅から再びWHRの客となる。雨に襲われる心配がなくなったので、オープン客車に席を取った。短いゴートトンネル Goat Tunnel を抜けると、さっきロケを張った鉄橋を渡って、グラスリン川左岸に位置を移す。そこから約1kmの間はアベルグラスリン渓谷 Pass of Aberglaslyn で、沿線で唯一の瑞々しい渓谷風景が見られる。行く手を塞ぐように谷はどんどん深まっていき、列車は短いトンネル2本でしのいだ後、路線最長のアベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel(長さ 280m)で谷の最狭部をバイパスする。

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再びWHRの客に (左)グラスリン川に沿って下る (右)アベルグラスリン渓谷を縫う

闇を抜けると同時に、景色はがらりと変化する。ナントモル Nantmor の停留所を見送った後は、農地と湿地が混在する干拓地トライス・マウル Traeth Mawr の真っ只中に出ていく。右に90度向きを変えた地点が、旧クロイソル・ジャンクション Croesor Junction で、近傍のスレート鉱山へ向かうクロイソル軌道 Croesor Tramway との分岐点だったところだ。

軌道跡は線形がよく、わが機関車は帰りを急ぐかのように速度を上げる。羊の姿を隠すほど背丈の高い草の牧場をかすめていき、地方道と一緒に川幅が広がったグラスリン川を渡る。小さな待合室がぽつんとあるだけのポント・クロイソル Pont Croesor 停留所には停まらなかった。

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(左)クロイソル・ジャンクションへの90度カーブ (右)背丈の高い草が生える牧場
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(左)川幅が広がったグラスリン川を渡る (右)ポント・クロイソル停留所を通過

右の車窓に注目していると、側線が分岐し、並行するホームと複数の線路が現れた。ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction / Cyffordd Pen-y-Mount だ。ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway(以下 WHHR)の走行線の終点になっている。

WHHRというのは、WHRやその運営者であるフェスティニオグ鉄道とは別の組織が運営する小さな保存鉄道だ。カンブリア線のポースマドッグ駅近くの拠点駅からここまで、1.6kmの路線を有している。WHR側にはホームはなく、この列車も知らん顔で通過してしまうが、よく似た鉄道名や接近する線路を見れば、2つの鉄道が無関係でないことは誰でもわかる。実際、両者の間には、何十年にも及ぶ関わり、というより穏やかならぬ因縁がある(下注)。

*注 この経緯については別稿でまとめる予定。

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ペン・ア・モイント ジャンクション
(左)側線(閉鎖中)が分岐する (右)看板の裏にWHHRのホームと線路
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WHHR(茶色破線)とWHR(右上から降りてくる破線)、カンブリア線(左右に走る破線)の位置関係

辺りが人里めいてきた。主要道のバイパスの下をくぐると、WHHRの「本線」は右へ緩いカーブを切って離れていくが、車庫や博物館のある雑然とした区画がまだ並行する。と突然、ガタガタと線路を渡る衝撃が襲った。標準軌のカンブリア線を横断するカイ・パウブ クロッシング Cae Pawb Crossing(下注)だ。

*注 かつては単にカンブリアン クロッシング Cambrian Crossing と呼ばれていた。

線路同士が平面で交差するのは珍しい。なかでも異軌間のそれは、国内でもここにしかない。歴史的には、クロイソル軌道のほうが開通時期が早く、標準軌線は遅れて敷かれている。なぜ立体交差にしなかったのか。想像するに、それまで軌道が運ぶスレート貨物は、ポースマドッグ港で船に積み込まれていた。しかし、標準軌線が開通すれば、貨物輸送はそちらに移行して(下注)、港線の往来は激減するだろう。それなら立体交差に費用をかけるまでもないという判断だったのではないか。最終的には港線ばかりか軌道全線が廃止されてしまったが、保存鉄道化に際して、昔のとおりに平面交差が復元された。

*注 先述のペン・ア・モイント ジャンクションはそのための積替え駅で、WHHRが使う1.6kmの路線は、元来ジャンクションへ通じる貨物側線(ベズゲレルト サイディング Beddgelert Siding)だった。

■参考サイト
Phase 4 - Completing the Welsh Highland Railway - Cae Pawb: The Cambrian Crossing
http://www.whrsoc.org.uk/WHRProject/phase4/cambrian.htm

狭軌の旅のフィナーレは、ポースマドッグの市街地のへりを行く区間だ。計画時点では、ポースマドッグ・クロスタウンリンク Porthmadog cross town link と呼ばれた。旧線跡が商業施設に転用されてしまったため、ルートはその駐車場の東側に新設されている。カーブの多い線路をゆるゆると走った後、列車は一旦停止した。前方から警報機の唸る音が聞こえてくる。

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ポースマドッグ・クロスタウンリンク
(左)製粉工場スノードン・ミルの廃墟をかすめる
(右)駐車場の東側に新設された線路(いずれも別の日に撮影)

この先は、ポースマドッグ港に面するブリタニア橋 Britania Bridge という道路橋で、併用軌道になっている。信号で道路交通が遮断されると、列車は動き出し、橋上の道路に急カーブで進入する。ポースマドッグのハイ・ストリート High Street に、大柄なガーラット式機関車がゆっくりと割り込んでいくこのイベントは、今や町の名物の一つといっていい。列車はそのままポースマドッグ・ハーバー駅前をすり抜けて、新設された2番線へ滑り込む。時計を見ると17時50分、定刻の到着だった。

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ブリタニア橋の併用軌道へ急カーブで進入
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ブリタニア橋を一時占有する列車
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(左)列車通過の間、道路交通は完全遮断(別の日に撮影)
(右)ポースマドッグ・ハーバー駅新2番線に到着

カーナーヴォンからポースマドッグまで直通列車の走行を実現したWHRだが、長い路線の成立までには紆余曲折があった。次回はその経緯を追ってみたい。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト)
http://www.whrsoc.org.uk/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II


ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

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前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、まず旧WHRの成立過程を区間別に繙いていきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった時代
(中)1860年代には標準軌各線やクロイソル軌道が開通
(右)1880年代にはWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道が開通
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(左)1900年代には南北を連絡するPBSSRの工事が始まるも中断
(中)1920年代にはWHRが全通
(右)1940年代までにWHR、フェスティニオグ鉄道とも休止

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコットティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でもそうと知れるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分され、大規模店舗が建ってしまった。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用された。それで復活WHRはこれ以上北へ進めず、現在位置にとどまるしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅で、狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、ディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(当時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸されて、全線が開通した。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄り路線であることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリスから登り始めるよりも距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルトへの南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行った。彼らは、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤になった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自らの手で開通させた区間だ。しかし、それ以前にこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (PBSSR) の計画で(下注)、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に多額の資金を費やしたため、線路の完成は後回しとされ、竣工期日を延期したあげく、途中で計画は放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に使われた。また、アベルグラスリントンネルやベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト Beddgelert 駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった未成線跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北側だが、現WHRがS字カーブを切っている「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」は、実は急勾配を緩和するために造られた迂回路だ。地形図では、ループの東側に未成線の低い築堤や掘割が描かれており、車窓からもそれとおぼしき橋台跡が確認できる。また駅の南側では、ゴートトンネルを抜けたところに、A498号線をオーバークロスするための煉瓦造橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

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S字ループの東側にある未成線の低い築堤と橋台跡
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台跡
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

1846年にポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で採掘場が開設されたが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポート・マドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却された。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭まで走っていた。

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻せば、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間には、ささやかな貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道と、旧クロイソル軌道区間だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道が存在した。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方政府が社債の引受けで建設事業を援助したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念ながら、業績は開通初年がピークだった。当時すでにスレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスには敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、地方政府の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方政府は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実行された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地を鉄道目的以外に転用できず、大部分の土地が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの長い道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代にWHRがリード・ジーまで復活
(右)2011年に新WHRが全通

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商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。

■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration

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ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン(ベズゲレルト駅にて)

旧線路用地の帰趨

旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company 社(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、鉄道の建設資金を社債を発行して調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。

指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そのため、用地を縛りから解き放つために、法的な手続きが必要で、それには2つの選択肢があった。

一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。

清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。

1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。

協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。

鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。

鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。

運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。

管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。

ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。

その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。

64年会社と全線派

1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。

1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。

1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。

しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。

全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。

ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。

内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。

片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。

全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。

TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。

*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。

フェスティニオグ鉄道の思惑

64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。

管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。

ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。

*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。

そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。

WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。

1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。

1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。

FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。

1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。

すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。

このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。

連携と逆転劇

このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。

全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。

こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。

聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。

裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。

両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。

しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。

やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。

FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。

対立を超えて

この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。

とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。

区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。

中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。

*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。

WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。

WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。

しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。

合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。

加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。

11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。

その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。

結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway」に変更されて今に至る。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。

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オーストラリアの地形図-クイーンズランド州

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連邦制をとるオーストラリアでは、地形図の製作業務も連邦と各州が分担している。連邦が受け持つ1:100 000以下の小縮尺図は以前紹介している(下注)ので、今回から州が製作する地形図を見ていきたい。初回はクイーンズランド州だ。

*注 「オーストラリアの地形図-連邦1:100,000」「オーストラリアの地形図-連邦1:250,000」参照

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クイーンズランド州
地形図カタログ第3版
(2002年)表紙

クイーンズランド Queensland は、オーストラリア大陸の東北部を占める同国第2の面積をもつ大きな州だ。日本からの直行便が飛ぶ州都ブリスベン Brisbane(現地の発音はブリズベン)やケアンズ Cairns のような拠点都市、ゴールドコースト Gold Coast やグレートバリアリーフ Great Barrier Reef といった海洋リゾートはよく知られている。

2017年現在、同州の測量業務を担当しているのは、天然資源・鉱山省 Department of Natural Resources and Mines だ。官製図にはお堅いイメージがつきまといがちなので、オーストラリアのいくつかの州では愛称を付して親近感の演出に努めている。クイーンズランドの場合は、亜熱帯の陽光が降り注ぐイメージから「サンマップ Sunmap」だ。

残念なことに、紙地図(オフセット印刷図)の新規発行はすでに全面停止され、ウェブサイトでの画像提供に移されている。だが、そこでは現行図だけでなく、旧版図も扱われているので、まずは基礎知識として、かつての紙地図の体系に触れておきたい。

手元に2002年5月発行の地形図カタログ第3版がある。それによると、州全域をカバーする最大縮尺は1:100,000だ。しかし、大鑽井盆地 Great Artesian Basin が広がる内陸部については、正式図ではなく測量原図の青焼き dyeline copy でのみ供給可能としている。1:100,000でそれだから、1:50,000より大縮尺図の整備範囲は推して知るべしで、人口が張り付く南太平洋岸の限られたエリアで作成されているに過ぎない。

縮尺体系はさまざまで、1:10,000や古い1:31,680(半マイル図、図上1インチが実長1/2マイルを表す)も若干数見られるが、一定量の面数があるのは、1:25,000と1:50,000だ。

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1:25,000地形図表紙の変遷(左から)
等高線地図 8064-32 Redlynch 1986年
写真図 9242-11 Toowoomba 1996年
等高線/写真図両面刷 8557-41 Bowen 2001年
デジタル等高線図 9242-11 Toowoomba 2010年

1:25,000は州の整備計画のもとで製作されてきた。図郭は1:50,000のそれを縦横2等分しており、経度7分30秒、緯度7分30秒になる。ユニークなのは図葉によって地図の種類が異なることだ。製作年代に応じて、次に述べる3種のいずれかが入手できた。

1977年に標準地図の製作計画がスタートした当初は、等高線地図 Line Map、つまり一般的な地形図が作られていた。等高線間隔は5mまたは10mと、日本の1:25,000(10m間隔)と比べても遜色ない精度だが、その代わり、急傾斜地では主曲線を省略して計曲線のみにしていた。そのため、山がちの地域では地勢表現が大雑把になりがちだった。また、等高線に紅色を配したため、赤(朱色)や橙の道路記号とやや紛らわしい。その他の地図記号はおおむね連邦の1:100,000に準じていた。

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1:25,000図の例
いずれも 9242-11 Toowoomba 図葉 (左)等高線図 2010年 (右)写真図 1996年

次に登場したのが、写真地図またはオルソフォト地図 Image or Orthophoto Map だ。同州のそれは、カラー空中写真の上にUTMグリッド、等高線、交通網、行政界などの記号と地名を加えてあった。写真図は、地表の様子がありのまま読み取れるという空中写真の利点を生かしつつ、写真には表現されない高度、境界、道路区分、地名といったデータを補うものだ。理想的な地図のように見えるが、実際に作業に用いるには、決して使いやすいものではない。情報量が多すぎて地表の様子を大掴みすることが難しく、また書込みが効かない(書込んだものが目立たない)からだ。

*注 オルソフォトは、地表の高度差、あるいは写真の中心からの距離によって生じる歪みを修整した正射投影画像のこと。

その反省もあったのだろう。1990年代に、等高線地図と写真地図を両面刷りする形式に切り替えられた。1枚で2種の地図を見比べられるから徳用版だ。なお、等高線地図の等高線の色が変えられ、主曲線が灰色、計曲線が茶色になった。識別しやすいかどうかは別にして、線幅(線の太さ)でなく色で区別するという仕様は、世界的にも珍しいものだ。

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等高線図 凡例

これに対して1:50,000は、1:25,000整備計画以前に、軍の測量機関であった王立オーストラリア測量隊 Royal Australian Survey Corps が製作していたものだ。陸上交通路の重点防衛地域で実施された地図整備事業の成果物だが、一般にも供されていた。図郭は1:100,000のそれを縦横2等分した経度15分、緯度15分になる。1:25,000の製作範囲とおよそ重複しているので、縮尺は異なるものの、およそ1世代前の地表の状況を記録した地図と考えればいいだろう。

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1:50,000地形図の例
(左)9543-3 Brisbane 1971年 (右)9441-2 Grevillia 1990年

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地形図の図郭と付番方式
1:100,000(外側の黒の太枠)に対して、1:50,000(赤枠)は枝番1桁、1:25,000(黒の細枠)は枝番2桁

クイーンズランドの旧版地形図は、広範なスキャニング作業により、現在はウェブサイトで自由に閲覧できるようになっている。

■参考サイト
クイーンズランド州旧版地形図 Historical topographic map series—Queensland
https://data.qld.gov.au/dataset/historical-topographic-map-series-queensland

使い方は次のとおりだ。

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旧版地形図シリーズをリストから選択

1.上記参考サイトの Data and resources(データおよびリソース)の見出しの下に列挙されているシリーズ名から見たいものを選択する。さまざまなシリーズが挙げられているが、代表的なものは以下の2種だ。

・25000 series 1965-2012—Queensland(=1:25,000多色刷等高線地図)
・25000 image series 1993–2003—Queensland(=1:25,000オルソフォト地図)

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目録データの取得

2.タイトルのリンクを選択するとこの画面になる。Download ボタンで、地形図の目録データ(csv形式)が取得できる。あるいは、Visualisation Preview ボタンで、同じ目録データがブラウザ上に表示される。

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目録データから画像にリンク

3.目録データの "jpg_linkage" の列で見たい図葉を選択し、(Windowsなら右クリックで)開き方を選択すると、高精度の地図画像が取得できる。

残念ながら、図葉選択に欠かせない索引図は周辺のページに見当たらなかった。次の QTopo(現行デジタル地図閲覧サイト)で、1:25,000の図郭を表示して確認するしかなさそうだ。

現行デジタル地図は QTopo と呼ばれるサイトで見ることができる。

■参考サイト
QTopo(現行デジタル地形図)
http://qtopo.dnrm.qld.gov.au/desktop/

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QTopo 初期画面

地図の閲覧では、地図画面左上のスケールバーを操作すれば拡大縮小ができる。また、画面上部の Print タブ、または左上の Click here to... を選択すると、印刷やPDF取得のオプションが見つかる。

1.Generated a Printable Map: 画面に表示した任意の範囲の地形図を印刷する。
2.Download a Standard MapSheet: 標準図郭の地形図PDFが取得できる。

また、各縮尺の地形図の図郭は次の方法で表示できる。

画面左下の Map Layers ロゴを選択する。左メニューに表示される Operational Layers を展開して、縮尺を選択する。1:100,000、1:50,000、1:25,000の選択肢があるが、画面にはいずれか1種しか表示できない。そのため、例えば1:25,000図郭なら、ベースマップをかなり拡大表示(表示縮尺 1:144,448 以上)しておく必要がある。

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オーストラリアの地形図-ニューサウスウェールズ州

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ジェームズ・クック James Cook が英国軍艦エンデヴァー号で南太平洋のタヒチへ向かったのは1768年のことだ。表向きの目的は金星の太陽面通過の観測だったが、それとは別に未知の南方大陸を探索せよという密命も受けていた。彼はタヒチからニュージーランドに到達し、続いて西へ進んで1770年4月に現在のオーストラリア大陸を「発見」した。

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NSW州地形図カタログ
2011年版表紙

ニューサウスウェールズNew South Walesというのは、彼がこの探検航海の間に、大陸の東岸全体につけた地名だ。しかし、クックは命名の理由を書き残していないし、彼自身はヨークシャー生まれで、ウェールズ南部には縁がない。それどころか、サウスウェールズがウェールズの南部を意味するのか、それとも南半球のウェールズと言いたかったのかさえわからないのだ。

現在のニューサウスウェールズ州 State of New South Wales(以下 NSW)は、クックが最初に上陸した場所を含むオーストラリアの南東部を占めている。その領域は、タスマン海 Tasman Sea(下注)に面する狭い海岸平野から、大分水嶺山脈 Great Dividing Range の反対側の西部斜面 Western Slope、さらに西部平原 Western Plain と呼ばれる見渡す限りの大平原まで東西1200km、南北900kmに及ぶ。オーストラリアの中では人口が最も多く、国際都市シドニー Sydney を中心に、鉱工業、農牧業など主要な産業分野で国内経済の屋台骨を支える州だ。

*注 南太平洋のうち、オーストラリア大陸とニュージーランドに挟まれた海域。"The Ditch(溝の意)" という言い方もある。

そのNSWの地形図を所管しているのは、州財務・サービス・イノベーション省 Department of Finance, Services and Innovation のもとにある国土・資産情報局 Land and Property Information (LPI) で(下注)、この広大な領域を、独自の地形図群でカバーしている。紙地図(オフセット印刷図)も、クイーンズランドのように刊行停止されてはおらず、州内のみならず他州の地図商経由でも問題なく入手が可能だ。

*注 州の地形図製作を所管していた旧 国土・資産管理局 Land and Property Management Authority (LPMA) が2011年に廃止され、LPIが業務を引き継いだ。

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1:25,000地形図表紙の変遷(左から)
旧版 9130-3S Botany Bay 1987年
新版 8525-2S Perisher Valley 2001年
新版 9029-1S Appin 2012年

LPIが製作している中縮尺地形図には、1:25,000、1:50,000、1:100,000の3種のシリーズがある。それぞれ緑、青、赤の表紙で区別されるが、下図のとおり刊行エリアの重複はない。1:25,000の縮尺は、先述の地勢区分でいうと、およそ海岸平野から西部斜面までの、比較的人口が集中し、土地利用が密な地域に適用されている。それだけ地形図の需要が多く、精度も必要とされるためだろう。

Blog_au_nsw_map_index1
縮尺ごとの適用エリア

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1:25,000図の例
入江に沿ってシドニーの観光名所ハーバーブリッジやオペラハウスが見える
9130-3N Parramatta River 2002年
© Land and Property Information, NSW, 2017, License: CC-BY 3.0
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1:25,000図の例
カトゥーンバ市街地のへりに断崖の記号が続き、ブルーマウンテンズの展望台が多数並ぶ 
8930-1S Katoomba 2000年
© Land and Property Information, NSW, 2017, License: CC-BY 3.0

対する1:50,000の製作範囲はそれより内陸の西部平原一帯で、一部の例外を除き、連邦のレッドライン Red Line までだ。レッドラインというのは、連邦の1:100,000地形図整備計画で、地形図を刊行せずに編集原図のコピー頒布にとどめたエリアの境界を指す。ラインを越えると主として内陸の砂漠地帯なのだが、LPIはそこでも1:100,000を刊行しているので、結果的に、連邦が諦めた地形図刊行を州が代行した形になっている。かつて連邦ジオサイエンスの製品カタログにも、NSW州域の1:100,000は連邦では刊行しておらず、NSWで入手できると記載されていた。

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(左)1:50,000地形図表紙 8735-S Coonabarabran 2012年
(右)1:100,000地形図表紙 7135 Corona

次に図郭の切り方だが、前回紹介したクイーンズランドの同縮尺図と比べると、横が2倍の長方形になる。1:25,000の場合、1:100,000の図郭を横2等分、縦4等分するので、経度15分、緯度7分30秒の範囲をカバーする。1:50,000の図郭はその4面分、すなわち1:100,000の図郭を縦2等分したサイズになる。

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地形図の図郭と付番方式
図郭は1:100,000(赤枠)を縦2等分すると1:50,000(青枠)、それを縦横各2等分すると1:25,000(緑枠)
図番は1:100,000に対して、1:50,000はN(北半分)とS(南半分)、1:25,000は1~4とN・Sを加える

図式は、各縮尺でほぼ共通の設計だ。等高線間隔は1:25,000の場合、平地・中間地は10m、山地は20mとされている。そのため、日本の同縮尺図(等高線間隔10m)を見慣れた目には、山地の表現がかなり粗く感じられる。1:50,000の等高線は20m間隔だ。

等高線の色は、スポットカラー(特色)印刷だった時代は道路と同じ赤を使っていたが、今はプロセスカラー(CMYKの4色刷)化され、少し灰味を帯びたテラコッタ色が充てられている。森を表すアップルグリーンと掛け合わせると薄い茶色のようにも見え、違和感はない。

市街地は黄色のベタ塗りの上に、各戸の敷地を示す地籍界がこまめに描かれ、道路(街路)名も詳しく注記されている。さらに、教会(礼拝所)、学校、救急施設、警察などかなりの種類の公共施設がアルファベットの略号で表され、広場 playground や公衆トイレ toilets まで記載されている。地形図でありながら、市街図としても使えるものを目指しているのだろう。

一方、農場や牧場が展開する平原に目を向けると、農道にストックグリッド stock grid(家畜の逃走を防ぐために道路に設ける格子状の仕掛け)や渡渉地 floodway、目標となる構造物 landmark feature の例としてサイロ silo やヤード yards(家畜用の囲い場)など、特徴的な記号が現地の風景を想像させる。

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1:25,000凡例の一部

1990年代までNSW州独自のシリーズは、地形図か、そうでなければオルソフォト地図(1:50,000や1:100,000図の一部)のどちらかで供給されていた。これに対して2000年から、新たなシリーズへの置換えが始まった。新版は両面刷で、おもて面に地形図、裏面には同じエリアのカラー空中写真(オルソフォト)を配している。

クイーンズランドの取組みに倣ったようにも見えるが、空中写真は地図仕様ではなく、画像の上に1kmグリッドと最小限の地名を加えただけの簡素な作りだ。実際のところ、このほうが純粋に地表の様子を読み取ることができる。とはいえ、その後グーグルマップなどの普及で空中写真が身近になり、新版登場のときに感じたありがたみはすっかり薄れてしまったのだが…。

最後に、州全域にわたってLPI刊行の地形図データを閲覧することができる NSW Topo Map (MapServer) というサイトを紹介しておこう。

■参考サイト
NSW Topo Map (MapServer)
http://www.arcgis.com/home/webmap/viewer.html?url=http://maps.six.nsw.gov.au/arcgis/rest/services/public/NSW_Topo_Map/MapServer&source=sd

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NSW Topo Map (MapServer) 画面

これは、地理情報統合プラットフォーム ArcGIS を利用しており、シームレスな地形図ラスタデータがレイヤーとして表示される。内容は刊行図と同じもので、解像度が高く、2倍程度の拡大表示にも耐えられる。

初期画面は縮尺が小さいため、何が描かれているのか判然としないが、地図画面左上にある+ボタンで拡大していくと、次第に地形図画像が見えてくる。ArcGIS のベースマップには衛星画像も用意されているので、表示を地形図から衛星画像に切り替えれば、印刷図で試みられた仕掛けがいとも簡単に実現できる。

■参考サイト
国土・資産情報局 Land and Property Information (LPI)  http://www.lpi.nsw.gov.au/

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オーストラリアの地形図-ビクトリア州

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VICMAP印刷図索引図
2014年版表紙

古風な雰囲気の残る州都メルボルン Malbourne のゆったりとした美しい街並みが、人々がこの州に抱くイメージを規定する。ビクトリア Victoria(下注)は、オーストラリア大陸の南東部の一角を占める州で、面積こそ本土で最小だが、人口はニューサウスウェールズに次いで多い。

*注 「ヴィクトリア」と書きたいところだが、オーストラリア観光局の表記に従って「ビクトリア」とする。

州の繁栄は、19世紀半ばに北中部のバララット Ballarat やベンディゴ Bendigo 周辺で起きた金の採掘ブーム、いわゆるゴールドラッシュによってもたらされた。渦中の地への玄関口として、ポートフィリップ湾 Port Phillip Bay に面するメルボルンやジーロング Geelong も急速に発展した。大陸第一の都市となったメルボルンが、オーストラリア連邦発足に際してシドニー Sydney と首都の座を争い、結局、双方痛み分けで内陸の小村キャンベラ Canberra に決まった話は有名だ。それでも首都が建設されるまでの約20年間、首都機能を果たしたのはメルボルンだった。

現在、ビクトリア州の地形図作成は、環境・土地・水・計画省 Department of Environment, Land, Water and Planning (DELWP) が所管している。州の略称が VIC なので、地図シリーズの愛称も「ビクマップ Vicmap」だ。もっとも最近は、地形図に限定せず、州の地図情報データベースの総称として使用されている。データベース全般の紹介は筆者の手に余るので、地形図に絞って紹介するが、それでさえ体系はなかなか複雑だ。

vBlog_au_vic_map_detail2
1:50,000図の例
パッフィンビリー鉄道の終点ジェムブルック Gembrook 周辺
8022-S Neerim 2008年
© Department of Environment, Land, Water and Planning, State of Victoria, 2017, License: CC-BY 4.0

ビクマップの製品記述書によれば、ハードコピー・マッピング(印刷地形図)Hardcopy Mapping には、大別して2つのカテゴリーがある。一つ目は標準図郭の区分図シリーズで、1:25,000、1:50,000、1:100,000と3種類の縮尺が用意されている。

1:25,000は、かつて経度7分30秒、緯度7分30秒の縦長判だったが、後に、これを横2面接続した経度15分、緯度7分30秒(+隣接図との若干の重複)の横長判に改められた。折図として販売できるように表紙も付けられた。便宜上、前者はシングルフォーマット、後者はダブルフォーマットと呼ばれる。1:25,000は北西部の平原や東部の山岳地帯では初めから整備の対象外だが、刊行済みのエリアでも更新間隔が最大6年とされているためか、いまだに両フォーマットが混在している。図番も、前者は6桁目が1~4、後者はN(北)かS(南)と異なる(例:7822-2-1、7822-2-N)。

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1:25,000地形図表紙の変遷(左から)
旧版(シングルフォーマット)7922-2-3 Lysterfield 1988年
旧版(ダブルフォーマット)8022-3-S Gembrook South 1993年
新版(ダブルフォーマット)7921-4-N Frankston North

1:50,000も2種のフォーマットがある事情は同じだが、すでに経度30分、緯度15分のダブルフォーマットで全面刊行が完了している。換言すれば、1:50,000が州全域をカバーする最大縮尺ということだ。図番は1:100,000のそれの後にNかSが付く(例:7822-S)。ただ、王立オーストラリア測量隊 Royal Australian Survey Corps (RASC) がかつて製作した1:50,000図(シングルフォーマット)も索引図に表示されているので、在庫のある限り並行販売されているようだ。

またこれらとは別に、国立・州立公園などで標準図郭に捉われずに自由に図郭を設定した「特別図 Special」もある。縮尺は1;25,000または1:50,000で、裏面には同じエリアのオルソフォト(正射写真)が印刷されている。

vBlog_au_vic_map2
1:50,000地形図表紙の変遷(左から)
旧版(ダブルフォーマット)7324-N Horsham-Murtoa 1991年
新版(標準図郭)8022-S Neerim 2008年
新版(特別図)Wilsons Promontry Special 2008年

これに対して1:100,000は本来、連邦の測量機関ジオサイエンス Geoscience の守備範囲であり、ビクトリア州域ではとうに完成済みだ。ところが、州は一部地域でオリジナル版を刊行し始めた。しかも連邦図(経緯度とも30分)に倣うのではなく、図郭を横2面接続したダブルフォーマット(経度1度、緯度30分)での提供だ。図番は、連邦のそれを単純に連結している(例:7722-7822)。想像するに連邦の印刷版更新が停止状態のため、州として必要な図葉を自らの手で維持する方針なのだろう。まだ刊行面数は少ないが、今後整備が進めば、連邦図は旧版の扱いになっていく。

ここまでが標準図郭シリーズの話だが、もう一つのカテゴリーというのは、オンデマンド出力の地形図だ。これは図面が汎用のA判プリンタに対応するサイズに調整されており、発注は専用サイトを通じてオンラインで行う。ユーザーはプロッター(実際はカラープリンター)出力された印刷図を受取ることもできるし、地理参照型PDFファイルでダウンロードすることもできる。縮尺はA0判が1:25,000、A3判とA4判が1:30,000になる。印刷する範囲も、標準図郭と任意の図郭を選択できるのが特徴だ。

実は標準図郭でも、近年は業務合理化のために、需要の少ない図葉がオフセット印刷ではなく、プロッター出力に移されてきている。そのため、2つのカテゴリーといっても、相違点
は結果的に、用紙サイズ(と縮尺)のバリエーションに収斂されてしまうのだが…。

オーストラリアでは2000年に、地図投影の基礎となる座標系が変更された。刊行図のうち2003年以前のものは旧測地系 AGD66 が、その後は新測地系 GDA94 が適用されている(下注)。縮尺、フォーマット、印刷方法に加えて、この測地系の区別があるため、それらを一枚に表現するビクマップの地図索引図は、かなり難解なものと覚悟しておく必要がある。

*注 ADG66はAustralian Geodetic Datum 1966、GDA94はGeocentric Datum of Australia 1994の略。

Blog_au_vic_map_index
地形図の図郭
黄枠は1:100,000ダブルフォーマット、青枠は1:50,000ダブルフォーマット、
赤枠は1:50,000特別図、緑枠は1:25,000ダブルフォーマット、
灰色の細線枠は1:25,000シングルフォーマットで現在はオンデマンド出力地形図の定形図郭

地図の図式は各カテゴリー・縮尺ともほぼ共通だ。ただ、地籍界を描くのは1:25,000だけで、道路網や街路名も縮尺が小さくなるにつれて適宜省略される。

地図記号には他の州にないものも見られる。たとえば、主要道では、道路地図のようなデザインの道路番号が付されている。鉄道関係では、トラムが発達するメルボルン市内を想定した併用軌道の記号がある。主要なトレール(自然歩道)には、図上で跡がたどれるように色三角の目印が置かれている。さらに地勢表現としてぼかし(陰影)が加えられ、見栄えの点でも他州とは一線を画している。

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1:25,000凡例の一部

このように意欲的な整備が進行中のビクマップだが、今のところウェブサイトでの提供は行われていない。VicmapTopoOnline と銘打ったサイトが存在するが、地形図閲覧サイトではなく、上述したオンデマンド出力の地形図を発注(有料)するためのものだ。画面に表示される地図は旧式の線画レベルで、あまりに物足りない。せめて地形図ファイルのダウンロードを無料化してくれると嬉しいのだが。

■参考サイト
環境・土地・水・計画省 Department of Environment, Land, Water and Planning (DELWP)
http://www.depi.vic.gov.au/

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キャンベラのある首都特別地域は別として、本土のすべての州・準州と境を接しているのは、南オーストラリア州 South Australia だけだそうだ。トリビアが示すとおり、同州は大陸の真ん中にあり、南はグレートオーストラリア湾 Great Australian Bight に面している。州人口の3/4以上が州都アデレード Aderaide とその周辺に集中し、ほかに小都市は点在するものの、それを除けばいくつかの低山地と乾燥または半乾燥の放牧地がどこまでも続く土地柄だ。

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1:50,000図の例
公園緑地に囲まれたアデレード中心街
6628-3 & PT 6528-S Adelaide 2001年
© Department of Environment, Water and Natural Resources, State of South Australia, 2017, License: CC-BY 4.0

南オーストラリア州の地形図作成は、環境・水・天然資源省 Department of Environment, Water and Natural Resources (DEWNR) が所管している。官製図の愛称は「マップランド Mapland」で、どこかのテーマパークと間違えそうな響きだ。

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1:50,000地形図表紙の変遷
(左)6028-I & PT 6128-IV Lincoln 1981年
(右)6628-3 & PT 6528-S Adelaide 2001年

連邦ジオサイエンスが1:250,000や1:100,000縮尺図で州全域をカバーしている(下注)ためか、マップランドは作成範囲を絞っている。市販されている地形図は1:50,000のみで、それも主として沿岸部の比較的人口が多いエリアでの刊行にとどまる。手元にある2002年版と2016年版の索引図を比較してもエリア拡張の気配がないから、これはもう確定事項なのだろう。

*注 ただし内陸部(いわゆるレッドラインの内側)の1:100,000は、編集原図のコピーで頒布されている。

1:50,000の図郭は、1:100,000のそれを縦横2等分した経度15分、緯度15分の範囲だ。初版は1970年代後半に遡り、現在は1980年代後半から2000年代前半製作のものが出回っている(下注)。旧版は主として2ツ折りで青表紙がついていた。1990年前後から印刷方式がプロセスカラー(CMYKの4色)になり、3ツ折りで、表紙もカラーの風景写真を配したものに変わった。座標系は2000年を境に、それ以前の版は旧測地系 AGD66またはAGD84、以降は新測地系 GDA94 が適用されている。

*注 同州アンリー Unley の地図商サイトhttp://cartographics.com.au/の記述による。

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地形図の図郭
中央に数字4桁がある太枠の図郭が1:100,000、それを縦横2等分した細枠が1:50,000の図郭

等高線間隔は10mで、日本の同縮尺図の20mと比べると精度は高い。それなら、対象となる一帯が緩傾斜地ばかりかというとそうでもなく、アデレード・ヒルズ Adelaide Hills を含むマウント・ロフティー山脈 Mount Lofty Ranges やその北に続くフリンダーズ山脈 Flinders Ranges の山腹は、結構な斜度がある。こうした場所は等高線でぎっしりと埋まることになる(下図参照)。

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1:50,000図の例
傾動山地の断層崖が続くアデレード・ヒルズの西斜面。アデレードメトロのブレア線がくねりながら上っていく
6628-3 & PT 6528-S Adelaide 2001年、6627-4 & PT 6527-1 Noarlunga 2001年
© Department of Environment, Water and Natural Resources, State of South Australia, 2017, License: CC-BY 4.0

地図記号にはさほど特徴的なものはないが、あえて挙げるとすれば、一つは道路の舗装区分だ。他州では未舗装道に薄赤やオレンジを充てるところ、マップランドは茶色にしているので、妙に実感がある。また、旧版では道路の分類基準が等級別(主要道、地方道等)ではなく車線数で、細線が1車線、太線が2車線以上を表していた。しかし現行図では、他州と同じように等級別に改められている。

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1:50,000の凡例(2001年)

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「マウント・ロフティー山脈エマージェンシーサービス・マップブック」表紙

上述のように単品の折図は更新中止になっているようだ。しかし別途、主要地域をまとめた地図帳シリーズが、「エマージェンシーサービス・マップブック Emergency Services Map Book」の名称で刊行されており、比較的新しい情報が入手できる。これは以前、CFSマップブック CFS Map Book と呼ばれていたもので、本来、地方消防隊 Country Fire Service (CFS) が実施している緊急業務を支援するための内部資料だが、一般にも販売されてきた。

マップランドのサイトによれば、現在8冊刊行されており、沿岸部の地域を1:50,000または1:100,000でカバーしている(ただし、西海岸 West Coast の一部は1:250,000)。例えば、アデレード周辺域は「マウント・ロフティー山脈編 Mount Lofty Ranges Emergency Services Map Book」に収録されており、人気の観光地カンガルー島 Kangaroo Island には「カンガルー島編 Kangaroo Island Emergency Services Map Book」がある。現地価格79豪ドル(1ドル85円として6715円)と少々値は張るが、地形図を1枚ずつ買うよりはずっと経済的だ。

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マップブックの図例
from "Mount Lofty Ranges Emergency Services Map Book"
© Department of Environment, Water and Natural Resources, State of South Australia, 2017, License: CC-BY 4.0

マップランドの地形図(オフセット印刷図)は、オーストラリア国内の主要地図商で扱っている。「官製地図を求めて-オーストラリア」の発注の項を参照。

なお、前回のビクマップと同じく、マップランドでも地形図の閲覧サイトは作られていない。Map Finder というサイトがあるが、これは地図や空中写真の発注(有料)のためのものだ。上記のマップブックや最新地形図(プロッター出力)は、このサイトで入手できる。

■参考サイト
環境・水・天然資源省 Department of Environment, Water and Natural Resources (DEWNR)
http://www.environment.sa.gov.au/
Map Finder
https://apps.environment.sa.gov.au/MapFinder/

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オーストラリアの地形図-西オーストラリア州

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南オーストラリアが英語で "South" Australia であるのに対して、西オーストラリアは "Western" Australia になる。名称はスワン川植民地 Swan River Colony を改称した1832年から使われていて、南(1836年)よりわずかながら先輩だ。州は大陸の西側1/3を占めている。面積253万平方kmで日本の約7倍、世界でも2番目に大きな行政区だそうだ。約260万人の人口の約8割が、州都パース Perth と周辺の都市圏に集中する。オーストラリアの輸出量の6割近くを算出するという大規模鉱業もそこに地域本部を置く。

地形図を所管しているのは西オーストラリア州土地情報局 Western Australian Land Information Authority だが、「ランドゲート Landgate」というブランド名で呼ばれることが多い。それ以前は土地情報省 Department of Land Information (DLI) で、さらに遡れば1829年創立の測量総局 Surveyor-General's Office を起源とする歴史ある組織だ。

筆者は2003年にDLIに地図事情を問い合わせたことがある。当時、州製作の地形図は縮尺1:1,000,000(R313シリーズ)9面で全域をカバーしていたものの、1:100,000や1:250,000はなく、連邦 AUSLIG(現 ジオサイエンス Geoscience)の刊行図が案内されていた。より大縮尺の1:25,000や1:50,000は、パースを含む南西岸をかろうじて固める程度の刊行状況だった。

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地形図索引図の一部

それに比べれば、近年のランドゲート製品の充実ぶりは目を見張るものがある。地形図はWA トポ(トポ Topo は地形(図)を意味する Topographic の略)と呼ばれ、広大な州全域を1:25,000、1:50,000、1:100,000のいずれかでカバーしている。ここ10数年で整備されてきたので、座標系はすべてGDA94に統一されている。

縮尺別に見ていこう。まず1:25,000の製作範囲は、人口が集中するパースメトロ(都心部)Perth Metro やサウスウェスト(南西地区)South West が中心だが、それだけでなく内陸部にも相当数が点在している。おそらく人が活発に動いているエリアはすべてカバーしているのだろう。図郭は経度緯度とも7分30秒で、1:50,000のそれを縦横2等分したものだ。等高線間隔は10~20m。

次に1:50,000の範囲は、南西部の1:25,000エリアの外縁に加えて、天然資源開発が盛んな北西部にも拡大されている。AUSLIGの同縮尺図と整備範囲がほぼ重なるので、その成果を引き継いでいるのかもしれない。図郭は経度緯度とも15分で、1:100,000のそれを縦横2等分した範囲だ。それ以外のエリアでは、1:100,000が作成されている。

オフセット印刷図はすでに全廃されてしまい、現在は地理参照型PDFファイルか、オンデマンド印刷での供給になっている。PDFファイルはCDに焼いて送られてくる。パース近郊フリーマントル Fremantle の地図商はそのショッピングサイトで、印刷図でも自社にある大判プリンタで出力するから速く届けられる、と言っている。販売店にとっては収納スペースも在庫チェックも不要で助かるはずだ。にもかかわらず、1面あたりの価格が前者でも12.39豪ドル、後者で26ドルというのはいささか高く、利用者にはデジタル化の恩恵があまり届いていない。

ランドゲートの地形図は、同局公式サイトからリンクしている "Map Viewer" という地図サイト経由で直接発注できるほか、西オーストラリア州の地図商でも扱っている。「官製地図を求めて-オーストラリア」の発注の項を参照。

なお、発注したサンプル図が届き次第、内容について記事を追加したい。

■参考サイト
ランドゲート Landgate  https://www.landgate.wa.gov.au/

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オーストラリアの地形図-ノーザンテリトリー

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巨大な岩山で知られるウルル Uluru(英語名エアーズロック Ayers Rock)にカタジュタ Kata Tjuta(ジ・オルガズ The Olgas)、原生林と滝と断崖のカカドゥ Kakadu。大自然の中に彫り出された絶景は、オーストラリアの観光スポットとして必ず挙がる名だ。大陸縦断列車「ザ・ガン The Ghan」の運行に伴って、拠点都市ダーウィン Darwin やアリススプリングズ Alice Springs の地名を耳にすることも少なくない。これらはみなノーザンテリトリー Northern Territory(北部準州)の域内にある。

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ウルル(エアーズロック) 1:100,000特別図 Uluru-Kata Tjuta National Park 第2版 1996年 (×2.0)
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

ノーザンテリトリーは、大陸中央部の北半分を占めている。連邦直轄地として1911年に領域が確定されたのち、短い南北分割期間を経て、1931年に再合併されて今に至る。1978年に自治権を与えられたが、日本の4倍近い面積に対して人口はわずか24万人だ。

地図作成はインフラストラクチャ・プランニング・ロジスティクス省 Department of Infrastructure, Planning and Logistics の所管とされている。2000年当時の古いデータで恐縮だが、域内の地形図の種類とカバーする範囲は以下の通りだ。

1:1,000,000:連邦 AUSLIG(現 ジオサイエンス Geoscience)所管、全域をカバー
1:250,000:連邦 AUSLIG 所管、全域をカバー
1:100,000:連邦 AUSLIG 所管、全域をカバー、ただし内陸部は編集原図のコピーを提供
1:50,000:連邦 AUSLIG 所管(製作は王立オーストラリア測量隊 Royal Australian Survey Corps)、北岸(主に南緯17度以北)およびスチュアート・ハイウェー Stuart Highway(=南北縦貫道)沿線で作成

他に1:25,000はダーウィン地域 Darwin Area、キャサリン Katherine、アリススプリングズおよびマリー川地域 Mary River Region で、1:10,000がダーウィンおよびアリススプリングズで作られているとされる。

このうち連邦所管の地形図の多くはネット公開されているので、いつでも図上遊覧ができる。冒頭に挙げた地域を地形図で追ってみよう。

ウルルを描いた1:100,000図は、上に掲げた。この地域では、1:100,000区分図(5047 Mount Olga および 5147 Ayers Rock)が編集原図のコピーで頒布されているが、それとは別に特別図「ウルル=カタジュタ国立公園Uluru-Kata Tjuta National Park」が作られている。掲げた画像はその一部だ。ウルルの山体には濃いめのぼかし(陰影)がかけられ、ボリュームのある形状が浮かび上がる。西麓から頂上へ直登する登山道や、有名な夕景を眺める場所(図の左上に Sunset Viewing Areaと注記)も描かれている。

一方、カタジュタはウルルの西25kmに位置する。36個の岩山から成るといわれ、図上でもかなりの数の閉じた等高線が確認できる。同じ1:100,000特別図の一部だが、こちらは50%縮小で表示しているので、距離感覚にはご注意を。

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カタジュタ(ジ・オルガズ) 1:100,000特別図 Uluru-Kata Tjuta National Park 第2版 1996年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

トップエンド Top End(下注)にあるカカドゥ国立公園からは、ジムジム・フォールズ Jim Jim Falls とツイン・フォールズ Twin Falls の周辺の1:100,000地形図を切り出してみた。図右下はジムジム・フォールズの部分を2倍拡大したものだ。この一帯は比高200m前後の断崖が連なり、滝はそれを切り裂くように懸かっている。また、周辺を覆う薄緑のドットパターンは、密度が中程度の植生を表す。掲載範囲外には、植生の平均高2mという注記が見られる。

注:トップエンドは、ノーザンテリトリー北端の半島部分を指す。

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ジムジム・フォールズとツイン・フォールズ 1:100,000 5471 Jim Jim 1990年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

港町ダーウィンはノーザンテリトリーの州都で、最大の都市でもある。1:250,000旧図(1962年編集)では、湾に突き出した旧市街の傍らから、3フィート6インチ(1067mm)軌間のノース・オーストラリア鉄道 North Australia Railway(NAR、1976年休止)が内陸に延びる様子が描かれている。一方、新図(2004年版)の鉄道は、ザ・ガンが走る大陸縦断のアデレード=ダーウィン鉄道 Adelaide - Darwin Railway(図では ALICE SPRINGS DARWYN RLY と注記) だが、ダーウィン駅も通るルートもNARとは全く異なる。この図の範囲では、NARの廃線跡が道路として利用されているようだ。

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ダーウィンとその周辺 1:250,000 SD52-04 Darwin 1963年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0
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ダーウィンとその周辺 1:250,000 SD52-04 Darwin 2004年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

アウトバックのど真ん中に位置するアリススプリングズは、アデレード=ダーウィン鉄道の中継基地であり、ウルル=カタジュタ観光の出発地としても知られる。旧図は1958~62年の編集で、1968年に赤色で訂補が入った版だ。地勢の概観は、等高線を用いずぼかし(陰影)のみで表現されている。鉄道は、かつてアデレードとこの町を結んでいた1067mm軌間のセントラル・オーストラリア鉄道 Central Australia Railway だ。

一方、下の新図(2002年版)の地勢表現は等高線のみなので、旧図とは見かけが大きく異なる。40年の間に市街地は拡大し、アデレード=ダーウィン鉄道(gauge 1435mm と注記)も登場したが、駅の位置は動いていないようだ。

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アリススプリングズとその周辺 1:250,000 SF53-14 Alice Springs 1977年(1958, 62年編集、1968年修正)
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0
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アリススプリングズとその周辺 1:250,000 SF53-14 Alice Springs 2002年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

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オーストラリアの地形図-タスマニア州 I

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オーストラリアの地図を眺めると、大陸の南東沖に逆三角形をした島が見つかる。タスマニア島 Tasmania(下注1)だ。大陸との比較で小さな島と思われがちだが、面積は約64,500平方km(下注2)と北海道の8割強の広さがあり、周辺の島嶼とあわせて一つの州を形成している。歴史的にも、大陸の東半を占めていたニューサウスウェールズからの分離が1825年で、他の植民地に一歩先んじており、早くから独自の行政体制を整えていたことが知れる。

*注1 1856年まではヴァン・ディーメンズランド Van Diemen's Land と呼ばれていた。Tasmania の実際の発音は、タズマイニアに近い。
*注2 周辺島嶼を含めたタスマニア州全体の面積は68,401平方km。

タスマニアはまた、地形図の分野でも他州をしのぐ技術と実績を有している。オーストラリアでは1:100,000以下の縮尺図は連邦の測量機関(現在はジオサイエンス・オーストラリア  Geoscience Australia)が担当する原則なのだが、タスマニアだけは例外で、1:100,000も1:250,000も州の測量機関によって独自の体裁で作られてきた。

しかし、地形図体系の見直しという世界レベルの大波は、ここタスマニアにも押し寄せている。その結果、2015年には思い切った方針転換が発表されるに至った。豊富なラインナップを誇ったタスマニアの地形図は、今後どうなっていくのか。2015年以前の体系と以後の体系について、今回と次回で概観してみたい。

タスマニア州の測量機関は、第一次産業・公園・水・環境省 Department of Primary Industries, Parks, Water and Environment のもとで2015年に設立されたランド・タスマニア Land Tasmania だ。それまでは情報・土地サービス局 Information and Land Services Division と称していた。

官製地図のブランドである「タスマップ(タズマップ) TASMAP」は、民間とは一線を画した高品質な地図製品をユーザーに認識してもらうとともに、組織変更による影響を避ける目的で、1973年に初めて導入された。このアイデアは他州政府にもすぐに取入れられて、ビクマップ VICMAP(ビクトリア州)やサンマップ SUNMAP(クイーンズランド州)が誕生している。

州全域(離島のマッコーリー島 Macquarie Island を除く)をカバーする最大縮尺図は1:25,000で、全部で415面ある。タスマップの公式サイトによれば、このシリーズは「行政や産業用および一般用途の重要な資料である。環境管理、緊急事態管理、農場設計、鉱物探査に使われる。また、ブッシュウォークやマウンテンバイク、乗馬などのレクリエーションのユーザーにもおなじみである。」

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1:25,000地形図表紙
(左)旧版 4038 Cradle 第1版 1986年 (右)新版 5225 Hobart 第4版 2008年

図郭はUTM(ユニバーサル横メルカトル)座標系で区切るもので、1面に東西20km×南北10kmの範囲を収める。地図の判型としてはかなり横長になる。これに対して1:100,000の図郭は、経緯度で区切る国際図に準拠しているため、両者の間には全く整合性がない。デジタル図で主流になったUTM座標系の図郭を早くから採用した先見性に驚かされる一方、各縮尺間で図郭や図番が体系化されていないため、地図を選ぶときに不便なのも事実だった(下注)。

*注 次回紹介するが、新1:50,000でもUTM座標系の図郭が踏襲されている。

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1:25,000索引図
図中の青枠が1:100,000図郭で、1:25,000図郭とは合わない
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1:25,000図の例 5225 Hobart 2008年
© Tasmanian Government, 2017

1:25,000図は、全国をカバーする大縮尺基本図として、1970年代後半から整備が始められた。上の表紙画像で左側の黄色地のものは2003年以前の旧版で、旧測地系 AGD66に基づいている。右側のタスマニアのレリーフ地図を強調したデザインは、2003年以降の新版だ。測地系が新しい GDA94に切り替えられたため、旧版との間に生じるずれを埋める必要があった。それで図面には、上縁および右縁に隣接図との重複部分が設けられ、いわゆる裁ち落としの体裁が取られた。

等高線は日本の1:25,000と同じ10m間隔で、地形の詳細とともに、所有地や土地区画などの地籍情報も表示されている。地図記号では道路を、常用として維持されるものと、利用制限のあるものに分類するのがユニークだ。前者は実線の記号、後者は破線が用いられる。また、舗装の有無は赤と橙の色で区別する。キャラバンパークやキャンプ場と並んで、公共トイレ、ごみ箱設置場所の記号が定義されているのもおもしろい。

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1:25,000図の凡例

残念ながら1:25,000は更新停止の断が下されたため、印刷図の販売も在庫限りで終了する。品切れになった図葉については、PDFファイルでネット販売される予定だ。なお、1:25,000はタスマニア土地情報システム Land Information System Tasmania (LIST) のベースマップとして、ウェブサイトでの閲覧も可能になっている(次回詳述)。

冒頭でも述べたように、1:100,000と1:250,000も州が連邦に代わって製作していた。「タスマップと地図作成の歴史 History of TASMAP and Mapping」(タスマップ公式サイト)はその経緯について、「連邦が1:100,000縮尺を採用したとき、タスマニアには包括的な航空測量計画と地図作成能力があった。そこで、全国シリーズの中でタスマニアの全ての地図を編集し印刷するという協定に至った。1:50,000地形図シリーズに置換えられた2015年まで、タスマニアはこのシリーズの製作を継続した。タスマニアを完全にカバーする小縮尺図は縮尺1:250,000で提供され、現在も維持されている」と述べている。

1:100,000は、州全域を41面でカバーする(マッコーリー島を除く、下注1)。かつては北東沖のフリンダーズ島 Flinders Island と周辺島嶼が4面に分かれていたが、1面にまとめられた。標準図郭は経度30分、緯度30分の縦長判だ。等高線間隔は20mで、繊細なグラデーションのぼかし(陰影)が入れられ、植生を表す緑の塗りとともに、地勢が美しく浮かび上がる。連邦製作の1:100,000に比べても、描画技術は一段上だ(下注2)。

*注1 8512 Maria 図葉が索引図から消えたため、入手できるのは40面。
*注2 連邦1:100,000との比較については「オーストラリアの地形図-連邦1:100,000」も参照。

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1:100,000地形図表紙
1:25,000の4桁図番と混同されないように、タスマニア1:100,000の表紙には図番の記載がない(背表紙にのみ記載される)。
(左)Derwent 第5版 1987年 (右)South Esk 第5版 2007年
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1:100,000図の例 8315 Pipers 2000年
© Tasmanian Government, 2017

連邦図とタスマニア図の相違点は、他にもある。表紙デザイン、地図の折り方、そして折ったときのサイズもそうだ。連邦図の折り方には変遷があるものの、折った状態では横10cm×縦25cmの縦長サイズだ。一方、タスマニア図は、縦長の用紙を横5ツ折、縦4ツ折にするため、横11.5cm×縦17.5cmとコンパクトサイズになる。

図名の付け方もおもしろい。連邦図は図郭内の主要地名を用いるオーソドックスな命名法だが、タスマニア図は都市や集落名ではなく、河川、湖沼、湾、山、岬、島といった自然地名を採用する。例えば、州都ホバート Hobart が載っているのは川の名から採った「ダーウェント Derwent」図葉で、都市はその河口にある。第二の都市ロンセストン Launceston も同じく川の名の「パイパーズ Pipers」図葉の範囲内だが、こちらはパイパーズ川の流域にはない。表紙の右上にその図葉に含まれる主要地名が列挙されているのは、直観的な図名でないことへの対策でもあるだろう。

連邦が1:100,000印刷図の改訂を停止したことに伴い、タスマニアも1:100,000の更新維持を断念した。

一方、1:250,000は、縮尺を連邦と揃えているものの、内容はタスマニアのオリジナル図と言い切ってよい。図郭からして連邦の標準を無視し、2倍近くある大判用紙を用いて、州全域をわずか4面でカバーする(マッコーリー島、キング島 King Island 等は挿図)。表紙デザインや折寸も独自なら、図式もほぼ独自仕様だ。

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1:250,000地形図表紙
(左)South East 第1版 1990年 (右)North East 第4版 2010年
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1:250,000索引図

等高線が100mと連邦図の50mに比べて粗いものの、ぼかしと段彩の組合せで補われている。かつては高度で色を分ける段彩だったが、現行版は色を緑から茶色へ連続的に変化させて、より滑らかな立体感を実現している(下図参照)。植生の表現は省かれており、地勢表現に徹する形だ。道路には道路番号とともに区間距離が添えられ、道路地図の機能も併せ持つ(下注)。注記は隣接図にまたがって配置され、4面を接合して大きな壁掛け図にできるよう設計されている。

*注 1:100,000にも同じように区間距離が描かれている。

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1:250,000図の例
(上)North East 1980年(下)North East 2010年
© Tasmanian Government, 2017

ランド・タスマニアの発表によれば、1:250,000は今後も維持され、4年間隔で改訂されることになっている。またLISTでも無償のデジタル版として提供され、この点は連邦と歩調を合わせているようだ。

これが2015年以前の地形図体系だ。結局、既存縮尺では、1:25,000と1:100,000が廃止、1:250,000だけが存続ということになる。次回は、ランド・タスマニアが提案する地形図体系の今後の方向性について、新たに開発された1:50,000シリーズを含めて紹介したい。

■参考サイト
ランド・タスマニア  http://dpipwe.tas.gov.au/land-tasmania
タスマップ TASMAP  http://dpipwe.tas.gov.au/land-tasmania/tasmap

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オーストラリアの地形図-タスマニア州 II

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タスマニア州の第一次産業・公園・水・環境省 Department of Primary Industries, Parks, Water and Environment が2015年4月に作成した「タスマップ地形図作成 将来の方向性 TASMAP Topographic mapping Future directions」というパンフレットがある。その中でタスマップ(下注)の将来の方向性について、次の5項目が提案されている。

*注 現地の発音はタ「ズ」マップだが、タスマニアの慣用表記に合わせて、本稿ではタスマップと記す。

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「タスマップ地形図作成 将来の方向性」表紙

1.新たに1:50,000地形図シリーズを導入する
2.新たに1:50,000タスマニア マップブックシリーズを導入する
3.1:25,000、1:50,000、1:100,000、1:250,000基本図シリーズのデジタル版を導入する
4.1:25,000および1:100,000地図シリーズの現行版を保管し、今後改訂を行わない
5.1:250,000シリーズ、国立公園・観光・レクリエーション地図、タスマニア市街地図帳の保守・製作を継続する

この方針が出された背景には、オンラインマッピングやドライビング・ナビゲーションの急速な普及と技術的進化がある。その影響下で人々は、地図上の情報が常に最新であることを期待し、そのことが紙地図需要の低迷に拍車をかける一因になっている。地図製作・供給の現場はいずこも、この状況にどう対処していくべきかという共通の悩みを抱えているのだ。

前回紹介したタスマップの1:25,000地形図は全415面あるが、製作後の経過年数は平均20年で、40%は25年以上放置されている。1:100,000図40面でも、平均経過年数は10年だ。そして地形図は、点数が多い割に大して売れない。例えば、タスマップ1:25,000図で年間販売実績が100部を越えるのは、わずか14面に過ぎない。

それなら紙地図はもう不要かというとそうではなく、タスマニアでは例えば、エマージェンシーサービス組織や、人里離れた奥地を歩くブッシュウォーカーらに、まだ根強い需要があるという。それが紙地図の全面廃止ではなく、縮尺シリーズの整理という穏当な結論につながったようだ。

2015年の方針のなかで最も興味を惹かれるのは、1:50,000地形図シリーズを新たに導入するという点だ。縮尺1:50,000は、従来のタスマップの地図体系にはなかった。更新停止となる1:25,000図と1:100,000図の「最良の機能を結合して、より良質で適切な製品を提供する」というコンセプトで開発された1:50,000地形図とは、どのような中身なのか。さっそく、タスマップの販売サイトを通じて現物を取り寄せた。

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1:50,000地形図表紙
(左)TQ08 Wellington 第1版 2015年 (右)TM06 St Clair 第1版 2015年

上記パンフレットによれば、1:50,000地形図は80面で州全域(離島のマッコーリー島Macquarie Island を除く)をカバーする。2015年に刊行がスタートしたが、優先的に1:25,000図が在庫切れのエリアや、需要が大きいエリアの図が刊行されていて、2017年3月現在の刊行面数は23面となっている。

図郭は1:25,000と同様にUTM座標区切りで、1面で東西40km×南北30kmのエリア(面積1200平方km)を収める。用紙寸法を拡大した効果もあって、これで1:25,000図(200平方km)の6倍の面積が描けることになり、その分、面数が減ってストックの維持コストも軽くなるはずだ。

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1:50,000索引図の一部(2017年3月現在)、緑の図葉が刊行済

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1:50,000の凡例

既存の1:25,000図と、内容を比べてみよう。地図表現では、配色に目立った変化はなさそうだ。等高線間隔は日本の1:50,000と同じ20mになったが、ぼかし(陰影)が付されているので、それがない1:25,000より地勢を感じ取りやすい。ただし、1:100,000図の明瞭なぼかしに比べれば控えめだ。植生は、1:25,000で8種に分類されていたものが4種に簡素化された。森林 Forest と低木林 Scrub の高さで2種に分け、ほかに植林地、果樹園・葡萄園を区別する。

地図記号では、市町村界 Local Government Area boundary がグレーの太線で存在を主張しているのに気づくが、これは1:25,000図式の踏襲だ。1:50,000ではさらにこの線に沿って市町村名が付された。建物関連では警察署、消防署、救急施設、州立エマージェンシーサービス、病院、郵便局といった公共サービス関連の記号がカラフルなデザインで目を引く。上述のように、こうした組織内での利用が意識されているのだろう。

業務用としてはともかく、個人の山歩きなどには使えるだろうか。セント・クレア湖 Lake St Clair 周辺の図を見てみると、主要な登山道は名称ともども網羅されていた。山小屋の場所と名称も記されている。少なくともタスマップが従来出している旅行地図(下注)に描かれる対象物は、きちんと転載されているようだ。なお、旅行地図のような耐水仕様の用紙ではないので、野外での本格的な使用には注意が必要だ。

*注 参考にしたのは、タスマップ刊行の "Lake St Clair Day Walks" 2016年版。

ところで、1:100,000もそうだったが、図名に必ずしも主要地名は使われない。明確な命名基準は知らないが、図郭の中央近くにある自然地名を用いることが多いようだ。州都ホバートHobartが載る図葉は「ウェリントン Wellington」で、これは町の背後にあるピークまたは山地 range の名だ。その北隣の図葉「グリーン・ポンズ Green Ponds」は、目を凝らして探すとジョーダン川 Jordan River 支流の小河川の名だった。

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1:50,000図 市街地の例 TQ08 Wellington 2015年 表紙を拡大
© Tasmanian Government, 2017
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1:50,000図 山地の例 TM06 St Clair 2015年 表紙を拡大
© Tasmanian Government, 2017

方針の第2項目にあるとおり、1:50,000は1枚物の折図のほかに、地図帳(マップブック Map Book) としての刊行も予定されている。州全域を301図に分け、3分冊で刊行されるという。マップブックはすでにビクトリア州、南オーストラリア州で実例があるが、上記パンフレットでは2007年製作の旧版を置き換えると書いているので、企画自体はタスマニア州が先鞭をつけていたのかもしれない(下注)。

*注 残念ながら筆者は2007年版を実見したことがない。

一方、既存の1:25,000図と1:100,000図は、オフセット印刷としては在庫限りとなるが、直販サイト TASMAP eShop(下記参考サイト)でオンデマンド印刷による販売が継続される。また、これらを含むタスマップの各縮尺図は、同じ直販サイトでデジタルファイルのダウンロード販売も行われている。これにはGPSデバイスやGISソフトで使えるGeo TIFFファイルと、グーグルアース等で開くKMZファイルの2種類がある。オンデマンド印刷の価格が55オーストラリアドルときわめて高価なのに対して、ダウンロードの価格は1件当たりわずか2ドルだ。

*注 ちなみにオフセット印刷図は9.95ドル(2017年5月現在)。

■参考サイト
TASMAP eShop  https://www.tasmap.tas.gov.au/

また、タスマップには地図閲覧サイト LISTmap(タスマニア土地情報システム Land Information System Tasmania、下記参考サイト)も用意されている。ここでは、ベースマップとしてデジタル地図のほかに、1:250,000図と1:25,000図のラスタ画像を表示できる。画像はやや鮮明さに欠けるが、読図には支障がない。

■参考サイト
LISTmap  http://maps.thelist.tas.gov.au/

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LISTmap 初期画面
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地形図画像は右上の Basemapsドロップダウンリストの "Scanned Maps" を選択
ちなみに "Topographic" はデジタル版地形図
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左端のスケールバーで縮尺を大きくすると、1:250,000画像が表示される
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さらに縮尺を大きくすると、1:25,000画像が表示される

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コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

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「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6名になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが的確で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
なお、軌道の正確なルートは不明のため図示していない
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。しかし、昭和8年図にはこの道はなく、代わりにそれより南に振れた形の直線路が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。残念ながら後の圃場整備によって、廃線跡の道は消失してしまった。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。

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コンターサークル地図の旅-石井閘門と北上運河

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集合時刻の10時16分、石巻駅に到着した列車から降りてくる人波を見回したが、堀さんの姿はなかった。改札で待っていた外山さんに告げる。「乗っておられないですね。この電車は仙石東北ラインなので、塩釜では停まる駅が違うんです」。

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石巻駅
(左)仙石東北ラインの特別快速が到着
(右)駅のあちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクター像が

コンターサークルS 地図の旅2日目の舞台は石巻市。北上運河の石井閘門(いしいこうもん)を訪ねることになっている。北上運河というのは、石巻を流れる北上川(下注)と、鳴瀬川河口に計画された野蒜(のびる)港を結ぶ目的で、1881(明治14)年に開通した長さ12.8kmの運河だ。今も使える状態で残されていて、その東端に石井閘門がある。

*注 1934年(昭和9年)完成の治水事業により、北上川本流は東の追波(おっぱ)湾へ注ぐようになったため、運河が接続する川は現在、旧北上川と呼ばれる。

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石井閘門から北上運河を西望

堀さんは塩釜市内に宿をとっているのだが、仙石東北ラインの列車は仙台から東北本線を走り、宿の最寄りの仙石線本塩釜駅を通らない。「次の10時56分着が仙石線の各駅停車なので、それかもしれません」「少し時間があるから、下見がてら運河へ行ってみますか」ということで、外山さんの車に乗せてもらって、とりあえず石巻駅を後にした。目的地まで車なら10分もかからない。

駅前から街路を北西に進んでいくと、初めて渡る橋が、その運河をまたぐ蛇田新橋だ。右折して運河沿いに走れば、突き当たりに閘門が見えてくる。脇の空地に車を停めた。ドアを開けると、思いのほか風が強い。曇り空で日差しがないため、じっとしていると肌寒いほどだ。

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石巻駅から石井閘門にかけての1:25,000地形図に加筆

運河の閘門は、水位の異なる水路間に船を通すための施設で、いわば船用のエレベーターだ。それは主として、2基のゲート(門扉)とその間のプール(閘室)から成る。仕掛けの要は、プール内の水位調節だ。水位を船が入る側の水面に合わせ、入口のゲートを開ける。船がプールに入るとゲートを閉め、プールに水を注入(または排水)して、水位を船が出て行く側と同じにする。そして出口のゲートを開けるのだ。

石井閘門は、北上川と北上運河の間を往来する船の出入口であるとともに、運河の水量調節や農業用水の取水も兼ねる施設だった。名称の由来は地名ではなく、当時の土木局長の名だという。日本で最初の煉瓦造による西洋式閘門として、2002年には重要文化財の指定を受けた。

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(左)ゲートを支える頑丈な門柱部
(右)鋼製ゲートの背後は北上川だが、目下、新しい堤防と水門の工事中

ちょうど閘門のプールの上を、道路橋がまたいでいる。せっかくの景観を分断するのはどうかと思うが、橋上に立てば、閘門を正面から観察できる。閘門の全長は50.35m、プールは幅7.15m、高さの平均4.65m(現地の説明パネルによる)。ゲートを支える門柱は煉瓦造りで、プールの側壁は石積みになっている。側壁のところどころに十字の鉄製金具が埋め込んであるのが見えるが、「船をつなぐためのものでしょうね」と外山さん。

一方、ゲートには、もともと欅の木が使われていたが、1966(昭和41)年に耐久性のある鋼製に更新された。それもあって閘門には、130年を超える歴史から想像されるような古色感はなく、現役で動いている装置が放つ生気が感じられる。

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(左)ロープを巻取る装置のようだが… (右)側壁の十字金具

一通り観察したところで、石巻駅に戻った。次に着いた列車から堀さんが降りてきたので、一行3名で再度、石井閘門へ向かった。同じように橋の上から施設全体を眺めた後、プール際に設置された説明板のほうへ案内する。表面は施設の沿革、裏側には当時の設計図面や運河の見取り図が刻まれている。

写真に収めたいところだが、堀さんが、カメラの調子が悪いと言う。フィルムカメラなのに、「昨日からフィルムの回る音がしないんですよ」。外山さんが手に取って確かめた。「Eの表示が出ていますね。エラーではないでしょうか」。何枚かすでに撮ったのなら、ここでカバーを開けるわけにはいかない。それで撮影は諦めざるを得なかった。「皆さん撮ってられますから、必要な時には提供してもらいますよ」。

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説明板には設計図面と運河の見取り図も

隣接して設けられた運河交流館は、震災で損傷を受けて今も閉鎖中だ。目の前をゆったりと流れているはずの旧北上川も、白い工事用バリケードで閉ざされて見えない。今後の高水位に備えて、現在、堤防を嵩上げする工事が行われているのだ。堤高を標高約4.5mに揃える計画だが、閘門は3.5mしかない。それで、外側に別の高堤防を築き、運河に入るための水門を新たに設けるという。川に開かれた閘門の景観は変わってしまうが、文化財保存と水害防止を両立させるには、他に策がないのだろう。

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工事用バリケードに掲げられた堤防工事完成予想図

これで訪問の目的は果たしたが、後の予定は何も決まっていない。「どっちみち塩釜方面へ戻るので」と、外山さんの好意で、北上運河の流れを追って西へ走ってもらうことになった。

北上運河は、野蒜築港計画の関連工事として建設されている。明治の初め、東北地方の産業振興を図るために水運の整備が進められたとき、まず決定すべきは、内陸水路である北上川と外洋を接続する拠点港をどこに置くかだった。地元の人々は、河口の石巻が選定されることを望んだ。しかし、調査の依頼を受けたオランダ人技師ファン・ドールンは、川から流入する土砂の堆積を理由にその案を斥け、鳴瀬川河口の野蒜を最適地と結論付けた。そこで、石巻から野蒜港まで、船が、砂の溜まる港や波高い外洋を経由しなくて済むように、運河の開削が必要になったのだ。

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北上運河周辺の1:200,000地勢図に加筆

閘門付近では、運河の周りは今やすっかり市街地化している。左岸に遊歩道があるものの、なんとなく味気ない印象の風景が続く。仙石線を乗り越すあたりから、ようやく松林が見え始めた。国道45号線と分かれた後の道沿いにも、背の高い木立が残っている。しかし、潤いの感じられる水辺の景色は、定川との合流点までだった(下注)。

*注 北上運河のうち、定川以東を北北上運河、定川以西を南北上運河という。

この後、運河はなおも西へ延びているが、一帯は浸水被害を受けて、目下復旧工事の真っ最中だ。鳴瀬川の河口では、まっさらの堤防が立ち上がり、築港跡の記念碑はその上に移設されていた。煉瓦の橋台は見つけたが、周辺の市街地跡だったところは更地のままだ。釣り人で賑わったという突堤跡が、砂浜から切り離されて波に洗われている。

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野蒜築港跡の現状
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(左)新堤防に移設された築港跡碑 (右)波に洗われる突堤跡

明治の築港事業では、最重要工事であった港口の突堤が1882(明治15)年に完成した。ところがわずか2年後に、台風の直撃に遭う。襲う大波が東突堤の一部を押し流し、残骸で港も塞がれて使用できなくなった。当時、浚渫の技術は未熟だったし、緊縮財政の中で修復予算がつく目途も立たない。結局、事業は翌1885(明治18)年にあえなく放棄されてしまったのだ。

堀さんが言う。「オランダから来たファン・ドールンは、日本の自然がどういうものかわかっていなかったようです」。昨日訪れた花渕浜の外港はこの30年後に計画されたが、同じように台風で被災し、頓挫した。そして今回の地震と大津波だ。海から絶え間なく吹きつける強風の中で、私たちは、想像を超える自然の威力との果て無き闘いに、思いを馳せた。

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野蒜築港周辺の1:25,000地形図
(左)震災以前のようす(2007年更新)
(右)同じエリアの最新図(2017年5月画像取得)

本稿は、現地の説明パネルおよび宮城県教育委員会「宮城県の近代化遺産-宮城県近代化遺産総合調査報告書」平成14年3月を参考にして記述した。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図石巻(平成22年更新)、同 小野(平成19年更新)、20万分の1地勢図石巻(平成元年編集)および地理院地図(2017年5月27日閲覧)を使用したものである。

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